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2013年3月5日更新 →バックナンバー
今回のテーマ

竹井澹如の没後100年。
星溪園から新たな時代へ。


 熊谷市立江南文化財センターは、「つくる、しる、ふれる」を基本コンセプトにして、市内の文化遺産として伝えられた「文化財」の収集、保管、調査および研究を行うとともに、これらの文化財の活用を図り、未来へ継承していく仕事をしています。
 「熊谷市文化財日記」を通して、市内にある素晴らしい文化遺産を多くの皆様にお伝えすることができたら幸いです。さあ、文化財という新たな旅へ一緒に出かけましょう。

江南文化財センター  TEL 048-536-5062
熊谷デジタルミュージアム
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竹井澹如 【たけいたんじょ】1839〜1912年
 平成24年、竹井澹如の没してから100 年の時が経過しました。澹如は、天保10年(1839)群馬県甘楽郡南牧村羽沢の豪族市川家に生まれました。幼名を萬平(まんぺい)といい、幽谷(ゆうこく)と号しました。熊谷宿の本陣竹井家を継ぎ、竹井家の14代当主となりました。
 政治に深く関心があり、地方実力者の養成に努め、中央政界の大隈重信、板垣退助、陸奥宗光らとも親交があり、陸奥宗
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光に働きかけて熊谷県誕生に尽力したことでも有名です。教育面でも渋沢栄一らと協力し、育英事業にも貢献しました。初代の県議会議長となり、産業・土木面でも大きな功績を残しました。
 澹如は、慶応年間に鎌倉町に別邸を置き、池亭と回遊式庭園を設けました。ここには、昭憲皇太后や大隈重信、徳富蘇峰などの名士が来遊し、現在は市指定名勝『星溪園』となっています。また、荒川の氾濫を防ぐため万平出しを築き、現在もその形跡が残されています。その地は万平公園(万平町)となり、その園内には、澹如の功績を讃えた市指定史跡「竹井澹如翁碑」(左写真)を見ることができます。大正元年(1912)、澹如は、73歳で永眠し、熊谷寺に葬られました。その後、墓地は市内大原に移動され、『竹井澹如墓』は市指定史跡となりました。今でも多くの参拝者が訪れています。

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若かりし日の澹如


星溪園と澹如
<星溪園の由来>
 元和9年(1623)、荒川の洪水により当園の西方にあった土手(北条堤)が切れて池ができました。
 その池には清らかな水が湧き出るので、『玉の池』と呼ばれ、この湧き水が星川の源となりました。のちに澹如翁が、その場所に別邸を設け、『玉の池』を中心に木竹を植え、名石を集めて庭園としました。
 明冶17年(1884)に時の皇后(昭憲皇太后)がお立ち寄りになり、大正10年(1921)には秩父宮がお泊りになるなど、知名士の来遊が多く見られました。
 本ギャラリーのある積翠閣は、当初、昭和5年澹如翁の長男耕一郎氏により建てられたものでした。高床式の建物で、和室と洋室からなり、月見台もあり、庭園の眺望が一段と高められ、静かな情緒を味わえます。
 昭和25年熊谷市が譲り受け、昭和29年市の名勝として指定されました。建物の老朽化が著しかったので、平成2年から4年にかけて建物と庭園の整備がなされ、建物は数奇屋感覚を取り入れ、格調高いものとし、日本的文化教養の場として復元されました。

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中山道と本陣跡
 本町1丁目の南側で、江戸時代参勤交代の折の大名や当時の上流階級の人々が、旅先で利用した竹井本陣と呼ばれる休泊所の跡。本町1丁目の西端にありました。敷地1600坪、建坪700坪、47部屋あり国内最大規模であったが明治の火災と、戦災で失われてしまいました。現在は市指定史跡として石標が置かれています(右写真)。星溪園から国道17号を東に進んだ場所にあります。

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作成日:2013年3月4日/作成者:江南文化財センター

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