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熊谷・軽井沢・プラハ

地域 歴史 ~2023年迄掲載

第32回 熊谷市指定文化財「みかりや」関連資料に関する概要報告

~埼玉県熊谷市久下・戸森家の多様な産業における「みかりや」関連資料の意義をめぐって~
熊谷市文化遺産保存事業実行委員会・文化遺産研究会

■第1節 「みかりや」関連資料の文化財指定とその意義

 熊谷市久下に所在する戸森家を所有者として関連資料が現在まで保存されてきた「みかりや」に関連した資料は、平成29年(2017)3月31日に「みかりや」関連資料一括(看板・版木・関連文書・日本画・型紙)として、熊谷市の有形文化財(歴史資料)に指定された。本稿ではその概要を理解するととともに、資料が有している文化財としての価値を再認識することを目的としている。
 久下の戸森家は、「みかりや(御狩屋)」と号し、代々茶屋を営むかたわら、上岡の馬頭観音(東松山市妙安寺)で売り出す絵馬を描いており、絵馬の型紙や「みかりや」に関連する古文書を所蔵している。「みかりや」の屋号は、忍藩主が狩りのときに休んだことが由来とされている。その際に授けられたと伝えられる鷹図等がある。
 また、渓斎英泉「岐阻(木曽)道中 熊谷宿 八丁堤景」(右図)は、中山道熊谷宿を描いた絵画であり、「みかりや」が題材となっている。また、薬の販売や各地の講中の定休所ともなっており、関連した看板や版木が残されている。その家の資料群は、熊谷にとって極めて重要であり、絵馬や薬の販売など、近世・近代の北武蔵の商家を考える上でも貴重である。

■第2節 「みかりや」関連資料の構成と種別

第1項 資料概要と種別内容

1.版木・看板(版木16点・看板12点)(戸森茂秋氏所有 熊谷市教育委員会 寄託)


>>上記資料全表記(PDF:48KB)はこちらからご覧いただけます。


2.関係文書類
諸帳面・記録簿(8点)
・「旗奉納諸懸り帳」 久下村世話人金太夫 (明治2年:1869)
・「大福帳」久下御狩屋金太夫(明治6年:1873)
・「金銀出入覚帳」 久下村御狩屋弥四郎(明治11年:1878)
・「神事諸入用払方帳」 (明治10年:1877)
・「万覚帳」 久下戸森弥四郎(明治12年:1879)
・「大福帳」 戸森弥四郎(明治15年:1882)
・「判取帳」 久下邨戸森弥四郎(明治12年:1879)
・「大調宝記諸事扣帳」 埼玉県大里郡久下村字久下蚕業大来館百六拾番地戸森広助(明治35年:1902)

3.絵馬講連名帳等(21点)
・「絵馬講連名帳」 当世話方久下村弥四郎(明治12年:1879)
・「絵馬仕入帳」 久下戸森弥四郎(明治12年:1879)
・「絵馬講中連名記」 世話人金太夫(明治13年:1880)
・「絵馬講連名簿」 世話役中久下村戸森金太夫(明治15年:1882)
・「観音講社連名簿」 当世話人戸森金太夫(明治15年:1882)
・「絵馬講社中」 世話人久下村戸森金太夫(明治17年:1884)
・「絵馬講社中」 久下村金太夫(明治19年:1886)
・「絵馬講連名帳」 下久戸森金太夫(明治20年:1887)大正・昭和期 同連名帳 他12件
・「絵馬販売簿」 久下邨戸森金太夫(明治22年:1889)

4.書状・収蔵書等(5点)
・書状「家伝神妙湯」 武州大里郡久下村調剤本舗金盛堂戸森金太夫(近代)
・「神妙湯売捌帳」 戸森金太夫(大正11年:1922)他4点
・「売薬検査願(万能膏)」 (明治42年:1909)
  記録者:埼玉県大里郡久下村大字久下平民金盛堂戸森金太夫
  受領者:埼玉県知事島田剛太郎
・『古文真宝前集・後集』 鈴木益堂校本 帙入り(3冊一括)、刊本
  (帙に戸森不遠の墨書「養子不教父之過訓導不厳師之情」あり)(安政2年:1855)
・『根本山参詣路飛渡里安内全』 福岡治郎兵衛撰(安政6年:1859)
  (裏表紙に墨書「中仙道市田庄武州忍久下御狩屋金太夫」あり、刊本、久下・熊谷新宿・下宿・
   上宿・妻沼町などの店が紹介されている)

5.日本画「架鷹図」(かようず)(2点)
  本絵と下絵(江戸時代)
  本絵(絹本)本体部 縦95cm×横35cm・下絵(紙本)とともに上部が欠損し追加部がある。

6.絵馬型紙(約300件)
  絵馬型紙一括

第2項 戸森家所蔵「看板」・「版木」・日本画「架鷹図」画像(6点)




        戸森家所蔵品(6点)はこちらのPDFファイル(735KB)をご覧ください。

■第3節 「みかりや」関連資料をめぐる歴史的経緯と概要

第1項 「みかりや」・戸森家の概要

「みかりや」は、中山道が久下宿から熊谷宿へ向かう途中の荒川土手にあり、「五海道中細見記」によると「久下土手御休所、名物もち有、みかりや金太夫」、「名物ゆびしあり」と記されている。「みかりや餅」と「ゆべし(柚餅子)」を名物とした茶屋で、代々金太夫を名乗っていた。渓斎英泉「木曽道中 熊谷宿 八丁堤景」には「あんころ」「うんどん」の表記があり、食事処でもあった。江戸時代以降、柚子に味噌を入れた柚餅子や、鮎を調理した「うるか」などの販売は好評で、現在まで製法が伝承されている。
 市史編さん室の調査などによると、「みかりや」という屋号は、「御狩屋」と書かれた一反ほどの暖簾を、寛永16年頃(1639)に忍藩主を務めていた阿部豊後守忠秋(1602-1675)から賜ったことにはじめるという。暖簾は戦時中に失われたとされる。忍藩主は、久下河原で度々狩りをしており、その折に戸森家の茶屋で休憩し、その際にあんころ餅を出したところ気に召されたという逸話が残されている。以降、鷹狩りのときには立ち寄るようになったことから、暖簾を賜ったとされる。戸森家の歴代は、…広助(山谷― 弥四郎―金太夫貞信―昭三―茂秋と継承されている。

第2項 「みかり屋」関連資料の概要について

1.版木
 戸森家が所有する版木は全16点あり、いずれも当時の家業であった売薬に関するものである。「家伝神妙湯」は、「免許家伝神妙湯腫脹之薬」「神妙湯免許日本一家伝はれものゝ妙薬」などと薬名が記されている版木があり、それらの多くは、主治効能、用法、注意書などをまとめたものである。その他、「精順湯」(瘡毒の妙薬)、「救瘡丸」(瘡毒の妙薬)など売薬の版木が確認できる。刷物にして、宣伝のために配布されたものであろう。後述の売薬関係文書とも併せてみる必要がある。

2.看板
 看板は全12点である。そのほとんどが売薬関係の看板であり、いずれの状態からみて、店頭などに吊り下げられていたものと考えられる。「免許売薬営業」という販売許可を示す墨書の看板があり、他に前述の版木にある「神妙湯」「救瘡丸」「精順湯」などの看板がある。更に他の看板には、「吉見大々桐生講」とあり、各地の講において庶民を取りまとめた「大々講中」の定休所であることを示した看板である。戸森家が所有している看板のうち4点は、埼玉県立歴史と民俗の博物館が寄託管理している。

3.関係文書類の概観
 本文書群は全250件あり、最も古い文書は寛文4年(1664)の「増補以呂波雑韻(上・中・下巻)」という書籍であるが、裏表紙に明治22年(1889)2月という年月と戸森広助の蔵書である旨が記されていることから、明らかに後年に入手したものであると推察される。本文書群については、幕末期から明治・大正期の文書が大半を占める。市史編さん室の調査報告に基づき次の分類として区分し、その中における貴重文書を抽出し文化財指定の検討を行った。
 
4.売薬など所業に関連した帳簿類
 戸森家文書には、売薬に関する帳簿や刷物が遺されている。戸森家では、瑱珠散(目薬)・神妙湯(腫物など)・精順湯(夜尿症・婦人病など)・救瘡丸(淋病・梅毒)・皮膚病薬(おできなど)などの薬を製作・販売しており、その過程で作成された関連文書である。文書は、明治42年(1909)から大正15年(1926)までの諸帳簿や刷物があり、全18件(79点)が保管されている。文書の作成者は、ほとんどが戸森金太夫で、「金盛堂」という屋号も確認できる。
 内容は、まず薬の製造に関する文書の代表例として「神妙湯製造帳」を挙げることができる。大正7~11年(1922~1926)の1冊、同11~15年(1918~1922)の一冊、合計二冊が残されている。これにより、約9年間に製造された神妙湯の個数や単価を知ることができる。他の製造帳としては、大正10年(1921)の他の薬剤に関する「製造帳」1冊がある。
万能膏など薬の売買に関する文書として、検査願いに関する帳面がある。販売に関する文書については「神妙湯売捌帳」が二冊あり、大正7年(1918)から同11年(1922)までの販売記録をみることができる。これに加え、大正10年(1921)の「売捌帳」も保存されている。
 多様な生業を営んでいた戸森家であるため、大福帳などの家の経営帳簿が数冊存在している。明治6年(1873)から同15年(1882)までの4冊である。表題は、「大福帳」「万覚帳」「金銀出入覚帳」である。明治6年(1873)の「大福帳」や明治11年(1878)の「金銀出入覚帳」には、作成者が「御狩屋金太夫」「御狩屋弥四郎」とあり、前述した屋号「御狩屋」を裏付けるものである。
 明治10年(1877)の「神事諸入用払方帳」は、祭礼などの入用を書き留めた金銭帳である。「愛宕登り」「雷電灯明」「地蔵灯明」「下久下地蔵灯明」などさまざまなものの入用が記されている。戸森家の信仰活動の一端をうかがうことができよう。また、明治2年の「旗奉納諸懸り帳」は、旗を製作して奉納した際の帳簿である。白生地の反物を購入し、染色・縫製し、竹を通して旗とした。金三十五両余りを要しており、その費用を上岡村・山田村・大谷村などからも集め、久下村の金太夫本人も金二両二朱を納めている。こうした経緯を追うことのできる史料である。

5.絵馬講連名帳・所蔵書類等
 戸森家文書には、絵馬の講や販売などに関する帳簿が含まれている。戸森家は絵馬を製作し、上岡馬頭観音(東松山市妙安寺)などで売り出していたことから、その過程で作成された文書であると推察される。
 文書は、明治8年(1875)から昭和2年(1927)に至るまでの諸帳簿が遺されており、全24冊を確認することができる。文書の作成者は、明治12年(1879)までが戸森弥四郎で、それ以降は戸森金太夫である。その中では、「絵馬講連名帳」が13冊と最も多く、大半を占めている。年代的には、明治8年(1875)から昭和2年(1927)までの帳簿である。
 明治8年(1875)の「絵馬講連名簿」では、久下村・奈良村・相上村・熊谷町・石原村などの37名がみられ、講員から集金して開帳料として金一〇〇疋などを納めている。講員の人数の増減はあるが、絵馬講を組織していたことが分かる。明治17・19年(1884・1886)の「絵馬講社中」という文書も「絵馬講連名帳」とほぼ同じ内容である。
 また、「絵馬仕入帳」は、明治12年(1879)の1冊が遺る。これは、筆・刷毛などの代金をはじめ、大工代・かんな代などの手間賃から、駄賃などまで含めた絵馬製作に関わる金銭出納帳である。
 製作された絵馬の販売に関連する文書としては、「絵馬販売簿」が明治22年(1889)の1冊が遺っている。これは、販売品ごとに絵馬の寸法・枚数・代金を記した文書で、購入者は地域的に久下村内をはじめ、上岡村・大谷村、山田村(滑川町)など広範囲へ渡っている。
 このように、戸森家の文書には、絵馬講に関するものがまとまっており、本文書群の特徴の一つとなる。なお、関係資料として、戸森家には絵馬に関する型紙が多く保存されている。
 安政6年(1859)の「根本山参詣路飛渡里安内全」は久下村をはじめ、熊谷新宿・下宿・上宿、妻沼町などの店を紹介した刊本であり、幕末期の宿場の様子を知ることができる資料である。

6.日本画「架鷹図」(かようず)
 戸森家では、日本画「架鷹図」の本絵と下絵の2点を所有し、ともに表具され掛け軸として保管されている。下絵の構図を基に本絵の着色が行われたことが分かる。ともに上部が欠落し、新たな用紙の貼り込みによって補正されている。絵師や筆年の記録は残されていない。絵は葵の唐草模様柄の止まり木に鷹が身を置き、迫力ある眼光を画面左方へ向けている。鷹の足に結ばれた留め紐が忠実に描写され、鷹狩りを表現する資料としても貴重である。

7.型紙(絵馬製作用)
 戸森家には、絵馬製作用の型紙が多く保管されている。その多くは渋紙であり、年代の記載から確認すると、明治39年(1906)から大正14年(1925)のものである。なお、同家の絵馬は、昭和3年(1928)に金太夫貞信が亡くなり、その時点で製作を終えている。
 これらの型紙については、平井加余子氏による調査・整理がなされ、目録が作成されている(平井加余子「戸森金太夫家絵馬型紙目録」(立正大学北埼玉地域研究センター編『熊谷の絵馬―庶民の祈りと暮らし―』1992年、70~73頁)。この報告によれば、全318点として示されている。その後の保管状況の変更等により全数の確認及び詳細調査は今後において補完したい。

■第4節 「みかりや」関連資料を構成する文化財の概要と特色

第1項 「みかりや」関連資料の主要資料に関する概要調査報告

看板「家伝免許精順湯瘡毒之妙薬」(縦109.8×横37.0×厚2.4、木製、裏書なし)
 看板には「精順湯瘡毒之妙薬」と刻まれており、「中山道久下邨調合所戸森金太夫」の銘が残されている。「瘡毒」の治療薬として製薬及び販売がされており、「救瘡丸」などの他の薬剤とは異なる名称として示されていることから、独自の調合薬であることが推測できる。同じ屋号にて複数の調合薬が製作され、販売されていたことを知ることができる看板である。文字が彫られた箇所には金箔張りが施されており、きらびやかな印象を与えている。上部の釣り金具も頑丈に製作されている。

看板「免許家伝日本一神妙湯腫瘍之薬」(縦121.5×横35.6×厚3.0、木製、裏書なし)
 看板には「神妙湯腫瘍之薬」と記されている。皮膚などの「はれもの」や子宮病などの療養薬として用いられ、日本一の名が示すとおり、効果的な治療薬として伝えられていた。江戸時代後期以降に掲示されたものであり、明治時代においても利用されていたとされる。看板の中には「調合所武州大里郡久下村金盛堂戸森金太夫」と記されており、調合者ならびに販売者としての免許を有し、そのことを利点として多数の販売がなされていたことが想像できる。

看板「吉見大々桐生講」(縦61.9×横19.1×厚2.4、木製、裏書なし)
 看板には「吉見大々桐生講」とあり、各地の講において庶民を取りまとめた「大々講中」の定休所であることを示した看板である。桐生の名から上州桐生(現在の群馬県桐生市)から、上岡馬頭観音(東松山市妙安寺)や吉見観音(安楽寺)への参詣に際して、奉納する絵馬の購入及び休憩する場所として使用していた講集団があり、彼らによって江戸時代後期に「みかりや」に寄贈されたものであると考えられる。紅色の「三つ巴」が鮮明に目に映る。

看板「免許家伝瑱珠散 くげの目薬」(縦115.2×横33.5×厚3.4、木製、裏書なし)
 看板には「免許家伝瑱珠散くげの目薬」と刻まれ、「武州大里郡久下村調合所金盛堂戸森金太夫」と記されている。久下の「くげ」という地名とともに効能となる眼病への薬剤であることが記され、当地の名薬として広く知られていたことが推定できる。文字の刻印には一部金箔押しが見られ、眼の絵が描かれるなど、意匠を凝らしている。屋名には「金盛堂」と記されており、「みかりや」という通称の他に使われていた調合所としての名称を知ることができる。

看板「家伝 秘法痳病之妙薬」(縦111.3×横18.5×厚2.4、木製、裏書なし)
 看板「家伝 秘法痳病之妙薬」は淋病の処方薬として販売されていた家伝の薬剤の販売を示すものである。江戸時代末期以降に掲示されていたと考えられる。流行病として、不慮の病として当時の人々を悩ませていた病症に対して、独自の製法による製薬が行われていたことを示している。人々の生活に密着した売薬店としての形態を知ることができる。

看板「家伝瘡毒請合 救瘡丸」(縦88.5×横39.0×厚4.5、木製、裏彫りあり)
 看板の中心には「救瘡丸」と力強く彫られている。裏面には「家伝さうどく請合きうさう丸」と記されている。「瘡毒」とは「梅毒」として知られ、その当時は薬剤の効果が限られていたとも伝わる。こうした不慮の病に対する薬効を求め、独自の製法で調合を行っていた「金盛堂」(「みかりや」の売薬屋号)の「救瘡丸」を購入していた様子がうかがえる。当主として記されている「坂下金太夫」は戸森家の金太夫であり、中山道の久下の長土手を下った場所、いわゆる「坂下」にあることから「坂下」と別称されていたことが分かる。

看板「家伝請合ひせんの妙薬」(縦84.2×横26.5×厚2.5、木製、裏書、墨書あり)
 看板「家伝請合ひせんの妙薬」と記され、瘡毒に対する妙薬の調合と販売を示している。「瘡毒」とは「梅毒」として知られ、当時の性病などの原因として庶民の中での衛生問題と化していた。墨書には「日本無二瘡毒の妙薬中山道久下村戸森金太夫」とあり、戸森金太夫の名が記されている。江戸時代後期以降の歴代の当主は金太夫を名乗り、製薬のほか、「みかりや」が関連していた諸業務を担っていた。かつて「日本一」として語られていたが、街道を行く人の声などから「日本無二」として表記するようになったとの言い伝えがある。

看板「免許売薬営業」(縦91.5×横22.2×厚3.3、木製、墨書、裏書なし)
 「免許売薬営業」は江戸後期から戸森家の業として営まれていた薬剤の販売を明治時代初期に再認定されていることが関係書類から明らかになっている。この看板についてはその制作された年代は不詳であるが、江戸時代においては忍藩から売薬の許可を得て、創薬や調剤を進めていたことから、「みかりや」の売薬の業が公的にも認められていたことを示す資料である。

絵馬と絵馬型紙
 戸森家には、絵馬製作用の型紙が多く保管されている。戸森家文書には、絵馬の講や販売などに関する帳簿が含まれている。戸森家は絵馬を製作し、上岡馬頭観音(東松山市妙安寺)などで売り出していた。製作の際に用いられていた型紙の多くは渋紙であり、年代の記載から確認すると、明治39年(1906)から大正14年(1925)の一品である。なお、同家の絵馬は、昭和3年(1928)に金太夫貞信が亡くなり、その時点で製作を終えている。絵馬の製作では、大量生産を前提とし、描かれる主題(例えば、馬)の形状や色の際に応じて、型紙を重ね合わせて刷り合わせる方法が用いられている。この絵馬は大正時代に製作された、馬の絵を模した絵馬である。馬の胴体部分と馬具の部分を分けて彩色の刷り込みをしている方法が型紙の様子から分かる。(前掲)
 
製薬・売薬に関する版木
 戸森家が所有する版木は、いずれも当時の家業であった売薬に関するものである。「家伝神妙湯」は、「免許家伝神妙湯腫脹之薬」「神妙湯免許日本一家伝はれものゝ妙薬」などと薬名が記されている版木があり、それらの多くは、主治効能、用法、注意書などをまとめたものである。 
その他、「精順湯」(瘡毒の妙薬)、「救瘡丸」(瘡毒の妙薬)など売薬の版木が確認できる。版木「家伝秘方ひせんの妙薬(日本無二瘡毒の妙薬) 武州大里郡久下村戸森金太夫製」と刻まれている大型の版木は、刷物として用いて宣伝のために配布されたものと推察される。主として薬の購入者に渡される用紙や薬の包み紙などに印字されて利用された。(前掲)


第2項 看板及び版木の現状画像




看板及び版木の現状画像(16点)はこちらのPDFファイル(1MB)をご覧ください。

■第5節 「みかりや」関連資料の調査研究の経緯と成果
             ―茶屋という「メディア」をめぐって―

第1項 調査研究と保存の経緯

 埼玉県熊谷市久下地区にある戸森家所蔵資料は、茶屋「みかりや」の歴史を知る上で重要な意義を有している。平成27年(2015)、所有者の戸森家から将来的な保存管理について熊谷市教育委員会に相談があり、その資料の寄託管理を希望する中で、資料的価値の再認識を含む調査研究が求められる状況にあった。本資料については、平成10年(1998)頃より、新市合併前の熊谷市立図書館や熊谷市郷土文化会が資料調査を実施し、その後、熊谷市史編さん室に引き継がれ、資料の移管を含めた概要調査が行われていた。
 これらの経緯を経て、平成28年(2016)に熊谷市文化財指定に向けての調査諮問が出されたことにより、実質的な調査研究をはじめとした資料の選別検討を実施することになった。熊谷市文化財保護審議会委員の平井加余子氏及び特別調査委員の平井隆氏の協力により戸森家資料庫の現地調査及び、市史編さん室において保存されている関連資料の確認調査を実施した。その資料選別の精査については前掲した一覧表などの成果として見出せるものである。その結果、多様な資料群の文化財指定に係る種別を始原とした調整検討を進め、その文化財的意義についての考察を行った。各項目において資料概要を示した上で、本節では資料の意義及び調査成果の一端を次項で示したい。

第2項 調査研究の成果と文化財資料としての意義と価値をめぐる考察

 江戸時代における中山道の「文化圏」と表現できる、熊谷宿及び久下の長土手周辺の文化的共有関係は、産業や政治経済と密接に関わりながら、特色ある郷土の歴史を形成する素地となっていた。
 中山道及び宿場町の政治的な側面の進展、隣接する忍城下から秩父地域へと進む交通路の整備や、地域の河川改修事業などの時代変遷を経ながら、庶民は様々な社会的基礎を担う役割を果たす中で、信仰行事や歓楽の文化、鷹狩や水利を活かした漁、民俗文化などを育んだほか、地域間の交流を担うとともに日々の営みや生業を重ねていた。この状況を踏まえると、中山道の久下地域における産業と文化振興の結節点として栄えた「みかりや」の存在は、地域史における地誌的要素に基づいた時代経過を考える上で欠くことができないと考えられる。この点からも、関連資料の文化財指定に向けての調査研究は、想像以上に、地域の庶民文化を知るための多様な要素が含まれていたことが分かる。
 創薬及び売薬、絵馬の講元などの動きは、一見異なる形態に分類される業務であるが、総合的に捉えるならば、中山道の文化圏の醸成という特質において共通している内容を含んでいる。それは、中山道を往来する人々にとっての「メディア」としての役割を果たしていたという点に帰すると推測される。新たな情報をその都度提供し、効果ある薬剤の販売や、絵馬講などの周辺地域の信仰文化への寄与などは、その薬効やその絵馬の祈りという根本的な側面を含有しつつも、新たな商品、新たな観光にも付随する参拝案内を通じて、人々の関心を広く集める媒体と化したのである。併せて、このような傾向の中で、「みかりや」は久下に多く居住していた絵馬の製作集団の作品を流通化させることで、その芸術的価値の向上を促し、「民藝」運動とも通底する熊谷発の工芸文化の発信を可能としたのである。
 また、歴史的背景を俯瞰する上で、近隣の河岸の「新川」地区との関わりについて着目すると、その特有の地域性を認識することができる。久下地区の長土手南側にある新川は、江戸時代初期から河岸の整備がなされ、中規模船の航行が可能な最上流の拠点として栄えていた。中山道の隣接地かつ荒川の舟運を活かした経済的恩恵を下支えとして、新川では農産品や林業資材、手工業生産品や製糸染色関連業における原料などが集積していた環境にあり、この産業面の進展が「みかりや」の多様な業との関連を明らかにしていると考えられる。物資と情報の集積地としての特質が、久下と中山道及び荒川という地域的位相を自然かつ必然的に結び付けるのであり、その双方を連関させる媒体としての意義を「みかりや」が有したという特質を感じさせるのである。
 「みかりや」はこの地域間の文化・政治経済の交流を可能とした媒体としての名声を博し、北武蔵地域を表象する「メディア」としての性格を持つに至ったと表現できる。渓斎英泉「岐阻(木曽)道中 熊谷宿 八丁堤景」では、熊谷宿の本陣や宿坊茶屋ではなく、富士山が垣間見える風光明媚な久下の地の「みかりや」が選ばれ、その題材となったことからも分かるように、結果的に中山道・熊谷宿・久下の長土手(久下宿)という一つのブランドの発信に繋がったことを想像するに難くない。このような歴史的背景の形成において「みかりや」関連資料が有している歴史資料としての価値は高く、郷土史の理解に寄与する意義の大きさを認識することができるのである。

■資料 「みかりや」関連資料に関する掲載記事

埼玉新聞 2017年(平成29年)4月16日(日)朝刊【中仙道と熊谷 語る】



毎日新聞 2017年(平成29年)6月23日(金)朝刊・埼玉版【中仙道で栄えた「みかりや」】



毎日新聞 2017年(平成29年)5月28日(日)朝刊・埼玉版【茶屋「みかりや」多様な商業活動】

「みかりや」関連資料
熊谷市文化財指定記念講座
「中仙道と熊谷の文化財」
平成29年(2017)4月26日(水)
熊谷市久下公民館ホール

出典・主な参考文献
・熊谷市史編さん室「久下戸森家の資料」(栗原健一)
 『熊谷市史研究 第9号』2017年
・埼玉新聞社『埼玉大百科事典』1974年
・藤島亥治郎『中山道 宿場と途上の踏査研究』
 東京堂出版1997年
・熊谷市立図書館『市街地・成田・久下』1984年
・『むさし熊谷 史跡・名所ガイドブック』
 (『熊谷市郷土文化会誌62』)2007年
・馬場國夫「岐阻道中熊谷宿八丁堤ノ景(みかりや)」
 (『熊谷市郷土文化会誌68』)2012年
・鯨井邦彦「中山道と熊谷宿」
 (『熊谷市郷土文化会誌70』)2014年
・山下祐樹「みかりや 市有形文化財に指定」
 (『熊谷市郷土文化会誌73』)2017年

・埼玉新聞「みかりやのゆべしを受け継ぐ」2007年12月6日掲載
・堀晃明『天保国絵図で辿る広重・英泉の木曽街道六拾九次旅景色 (古地図ライブラリー)』 人文社2001年
・クールジャパン研究部『広重 英泉 木曽街道六拾九次』ゴマブックス株式会社2013年
・三田村佳子「講帳よりみた絵馬講の推移~上岡観音絵馬講~」
 (『埼玉県立民俗文化センター研究紀要2号』、 1985 年)
・小野文珖「『熊谷の絵馬』について」(『立正大学北埼玉地域研究センター年報』15号、1991 年)
・立正大学北埼玉地域研究センター『熊谷の絵馬―庶民の祈りと暮らし―』(1992年)
・東松山市教育委員会編『東松山上岡観音の絵馬市の習俗』(2001年)

初出:山下祐樹「平成28年度第2回熊谷市文化財保護審議会資料:「みかりや」関連資料」
〔平成29年(2017)3月16日(木)熊谷市立江南文化財センター〕

■熊谷市文化遺産研究会

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作成日:2023/12/11 取材記者:哲学・美術史研究者 山下祐樹