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妻沼聖天山界隈

~2019年迄掲載 歴史 地域

第30回 実盛終焉の地と兜

多太神社宝物館展示用兜

このコーナーを始めてから、聖天山に最もかかわりの深い「斎藤別当実盛」の記事を書いてきませんでした。熊谷市の文化財担当学芸員の方たちは、実盛の資料は少ないと嘆いていましたので、生誕の地、終焉地を訪ねてから、記事にしようと考えていたところ、去る9月28日・29日の2日間、妻沼文化財調査研究会と斎藤別当実盛公敬仰会共催による視察研修会「実盛終焉の地を訪ねる」に参加することができました。カメラとICレコーダーを持って意気込んで行ってきましたので、その成果を記事にしました。
(写真の兜は、斎藤別当実盛公敬仰会が平成24年5月に二頭制作し、一頭は聖天山に、一頭は多太神社に奉納されたものです。)

■首洗い池 石川県加賀市柴山町

首洗い池

平家軍と木曽義仲軍の合戦した篠原合戦場は、加賀三湖の一つ柴山潟と片山津海岸の間の一帯といわれています。
実盛の首を洗ったと伝える「首洗い池」が、現在は手塚山公園として整備されいます。

■兜と木曽義仲主従の像

兜と木曽義仲主従の像

池のほとりには実盛の兜を前に、悲しむ木曽義仲と樋口次郎、手塚太郎の3人の像が建てられています。

■兜の宮 石川県加賀市柴山町

朽ちた扁額

小高くなっている公園の上部に、社がありました。屋根は傷みがひどく、一部崩れ、扁額と思われる朽ちた板が拝殿扉に立てかけてあり、うっすらと書かれた文字が判読できました。「兜の宮」と書かれていました。
各地に残る史跡は所在地の市町村の取り上げ方で、その整備保存状態は変わってしまうものです。

■実盛塚 石川県加賀市篠原新町

塚の前で供養する妻沼文化財調査研究会と
斎藤別当実盛公敬仰会の方々

首洗い池から西北に1キロ強、篠原新町にあります。バスを県道20号線上に停車させての見学です。討ち取られた実盛の首を掛けた松の枝分かれしたものを植えたと伝える樹齢350年以上のクロマツは鳥の羽を広げた様な樹形で見事です。塚の周りは石垣で囲われていて、塚に建つ石碑に刻まれた文字がは判読できませんでした。訪れる人が少ないのでしょうか、管理は十分とはいえません。

■多太神社 石川県小松市上本折町

多太神社正面

多太神社の社縁起では、武烈天皇5年(503年)創祀とあり、延喜式神明帳式内社です。
寿永2年(1183年)源平合戦の時、木曽義仲が斎藤別当実盛の兜・袖・臑を奉納したことで、江戸時代(1800年代)に刊行された古美術の木版図録集に記録され、元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が訪れ、「むざんやな甲の下のきりぎりす」の句を残したことで、有名です。(甲冑とも呼ばれる。 元来、『甲』は鎧、『冑』は兜を表していたが後に混同され、甲が兜の意で用いられる)

■実盛の兜

集古十種に掲載(宝物館の展示品)

やはり一番見たかった物は、実盛の兜です。斎藤別当実盛は伝説が多く、唯一史実となるものはこの兜なのでしょう。
復元された美しい兜では、芭蕉が詠んだ「むざんやな甲の下のきりぎりす」のイメージが伝わりません。宝物館で本物の「兜」を目の当たりにすると、兜のしたからコオロギが現れそうでした。
確かに時代を感じます。しかし、写真撮影は禁止です。

*集古十種は江戸時代(1800年代)に刊行された古美術の木版図録集。編集は松平定信で、挿絵は谷文晁らが描いています。絵図の表題でしょうか。「加賀國江沼郡須輪間村多太社蔵 實盛冑袖臑當圖」とあります。

■重要文化財としての兜

実盛の兜(多太神社パンフレットより)

石川県ホームページ文化財コーナーの「実盛の兜」の説明文が詳細ですので、引用させていただきました。
名称は「兜・袖・臑当(兜1頭、袖・臑当各1双)」です。 
規格 高さ15.2センチ 鉢回り 71.2センチ 総体回り 139.4センチ
重さ 4.4キログラム
重要文化財 昭和25年8月29日指定
「寿永2年(1183)に加賀国篠原で討たれた斎藤実盛着用の甲冑を、木曽義仲が多太神社に奉納したものと伝えられており、元禄2年(1689)、松尾芭蕉が『奥の細道』の行脚の途中に立ち寄り、この兜によせて「むざんやな甲の下のきりぎりす」と詠んでいる。
『集古十種』甲冑巻4に所載されている兜。鉢は筋兜で、腰に檜垣をめぐらし、篠垂は前三条・後二条。頂辺の座は、玉縁、裏菊座、枝菊彫の丸座を重ねる。眉庇中央下部に、枝菊高彫の角ばった鍬形台が置かれ、真中に三盛菊高彫をして中鍬形を挿入する。鍬形台上部には、「八幡大菩薩」と高彫した祓立台があるが、前立は欠けている。しころは四段威。吹返は三段で、二枚を画革で包み、小縁を伏せ縫し、10ヵ所を笠鋲で留める。上方外端に近く三盛菊高彫り据文金物が打ってあり、兜総体は、作品も精緻で気品が高く古雅である。袖は大袖七段威、臑当は大佩上で梅花沢潟紋がある。」

■兜いろいろ 

星兜の例

兜には「星兜・筋兜・桃形兜・変り兜」などがあります。
兜の鉢は細長い鉄板を鋲(びょう)で繋ぎ合わせて作られ、鋲がそのまま突起状に残り、星が並んでいるようなところから「星兜」。繋ぎ合わせの鋲をつぶして筋状に仕上げたものが「筋兜」といわれています。
実盛の兜は「筋兜」といわれるものです。
制作年代は、星兜が平安時代以来の古い形式で、筋兜は南北朝時代ごろに現れた新しい形式のようです。
文化庁ホームページの指定内容は下記のとおりです。
名称 「兜1頭、袖・臑当各1双」(かぶと、そで、すねあて)
重文指定年月日 明治33年4月7日 時代 鎌倉~室町

*制作年代の特定はされていません。制作された時代は、実盛が討死した後かも?

(参考)
・ウィキペディア
・石川県ホームページ
・多太神社パンフレット

作成日:2014/10/14 取材記者:mhennmi