くまがやねっと情報局

くまがやねっと > くまがやねっと情報局 > バックナンバー > 妻沼聖天山界隈 > 第31回 聖天山境内の二十三夜塔

妻沼聖天山界隈

~2019年迄掲載 歴史 地域

第31回 聖天山境内の二十三夜塔

二十三夜塔(正面)

10月16日(旧暦9月23日)午後5時過ぎに妻沼聖天山の鐘楼西側「二十三夜塔」の前で、二十三夜講の祈祷が、鈴木英秀歓喜院副院主の下で執り行われました。
この1週間前の10月8日(旧暦9月15日)は、皆既月蝕が全国的に観察できるというニュースで、月への関心が高まっていました。
月を見る機会は、天文ショーのみなってしまった私たちの生活と異なり、月とともに日々の生活が繰り返された先人の姿に、今回はちょっと触れてみたいと思います。

■二十三夜講

二十三夜塔前での祈祷

今回の企画は田島良生氏(銭屋釣り具店代表)が、聖天山境内の二十三夜塔に関心を寄せ、刻まれた文字から、二十三夜講の人たち21名が奉納したこと及び、今から180年前の天保10年の正月吉日に建てられたことが判明しました。先祖を偲ぶと同時に日本の伝統行事を再発見するための一助にしたいと、関係者に呼びかけ実現されました。
講の人たちは、聖天山に接する廓の上町10人、森下3人、池ノ上8人です。
現存する子孫の9人と郷土史家2人及び鈴木英秀副院主に加わっていただき、供養を終えた後、割烹千代枡において「江戸時代の先祖を偲ぶ会」を開き、懇談が行われました。
聖天山境内を普段散策していながら、この石造物に全く関心を持っていませんでした。「二十三夜塔」という石造物が何のために建てられたか知らず、二十三夜講のお誘いを受けてあわてて調べました。
「月待行事とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの特定の月齢の夜、「講中」と称する仲間が集まり、飲食を共にしたあと、経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事である。文献史料からは室町時代から確認され、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行した」(ウィキペディア:月待行事 参照)
それぞれの月待行事には特定の神仏と結び付けて供養されてきました。
十五夜講:大日如来、十六夜講:大日如来、十九夜講:如意輪観音、二十二夜講:如意輪観音、二十三夜講:勢至菩薩となっていたようです。

二十三夜塔台座の刻まれた名前

二十三夜講の人たちが供養のために造塔したものが、残されていたわけです。江戸時代に行われていた月待ち行事の一つであり、二十三夜の月が出るのは真夜中のことです。真冬の最中であるから聖天山籠り堂の中で待っていたのでしょうか。21名の談笑する声が聞こえそうです。

■妻沼地域内の月待塔の造塔状況

二十二夜塔(若宮地区)

それでは、妻沼地域内での月待行事と造塔はどの程度の広がりを見せたのでしょうか。妻沼町誌(昭和52年発行)第七節民間信仰の項に「月待信仰」として、次のように記述されていました。
「月待の信仰は、十九夜、二十二夜、二十三夜待といって講をつくり、女人が盛んに信仰したものであるが、当町における月待信仰は、造塔供養の実態からみると二十二夜講が一番多く、調査結果を見ると宝暦3年(1753)から14年の間に23基造塔されており、この年代に二十二夜信仰が急速にひろまった。二十三夜塔は文化4年(1807)以後数基造塔されたに過ぎない」。
確かに近くの社寺や辻などで、二十二夜塔及び如意観音像を見つけることはできましたが、二十三夜塔は見かけません。
今回の件で、身近な石造物に興味が湧きました。社寺の境内、集会施設の脇、路傍に置かれた石造物はまだまだたくさん見かけますが、その石造物にまつわる信仰や行事は忘れられてきています。たんなる郷愁ではなく、費用の掛かる石造物を建てて供養し、月待行事を続けてきた人々の生活文化を記録することの必要性を感じました。

作成日:2014/11/16 取材記者:mhennmi