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熊谷・軽井沢・プラハ

地域 歴史 ~2023年迄掲載

第20回 北村西望「戦災者慰霊の女神」の複製ミニチュア作製について

星川彫刻プロムナード研究会では、熊谷市の市街地を流れる星川上流に設置された、熊谷空襲の慰霊碑である北村西望「戦災者慰霊の女神」の複製ミニチュア像を下記の内容で作製した。ミニチュアは、同会の加入料として熊谷市観光協会において販売を行っている。
本事業は、星川彫刻プロムナードの再認識と、彫刻家・北村西望への関心を高めることを目的に実施し、ミニチュア像から得た会費を基礎として「星川基金」を設立し、彫刻文化や星川を中心としたコミュニティの普及啓発を目指す取り組みを進める予定である。
これと合わせて、北村西望の生涯や芸術観を解説した資料を作成し、星川周辺の店舗等での配付を始めた。星川彫刻プロムナードの活動を通じて、熊谷を北村西望研究の拠点とすることを目指し、地域連携型の文化発信を進めたいと考えている。

複製ミニチュア像

【北村西望「戦災者慰霊の女神」複製ミニチュア概要】
1. 複製ミニチュア像のモチーフ 北村西望「戦災者慰霊の女神」
2. 作製数 100体
3. 複製ミニチュア像のサイズ 高さ9.5cm(ポリストーン・樹脂石膏製)
4. 複製ミニチュアの費用 5,000円(研究会加入費)
5. 複製ミニチュアに関する問合せ・窓口
   ・熊谷市観光協会(星川彫刻プロムナード研究会事務局) 電話 048-594-6677
   ・熊谷市立江南文化財センター 電話 048-536-5062

■熊谷空襲の慰霊碑「戦災者慰霊の女神」

終戦直前の昭和20年(1945)8月14日深夜から15日未明にかけて、熊谷市は米軍の空襲を受け甚大な被害を受けた。いわゆる熊谷空襲は最後の空襲の一つに数えられ、市街地を含む星川周辺をはじめ多くの尊い命が失われた。
昭和50年(1975)8月16日、終戦及び熊谷空襲戦災30年を契機とし、熊谷市戦災慰霊碑建立奉賛会が中心となり、熊谷空襲で死没した266名の霊を慰め、永遠の平和を祈るため、星川上に「戦災者慰霊の女神」像が建立された。この女神像は死没者の遺族をはじめ、多くの市民からの浄財によって完成した。制作者に選考されたのは、当時の彫刻家の第一人者で、熊谷駅前に「熊谷次郎直実像(「熊谷之次郎直實」)」を制作した北村西望である。西望は戦時中に埼玉県長瀞町矢那瀬に疎開しており、熊谷の文化人・芸術家とも深い交流があった。
長崎出身の西望は、原爆被害を受けた長崎の「平和祈念像」の制作で大きな注目を集め、戦後の慰霊彫刻の原点を築いたと評価されている。星川の「戦災者慰霊の女神」の像高は1,725メートルであり、高純度アルミニウムで制作され、静かな銀色は慈愛に満ちた戦
                    災の苦しみを再び繰り返してはならないとの祈りが感じられる。

■彫刻家・北村西望 KITAMURA SEIBO

明治17年(1884)12月16日   
    ~昭和62年(1987)3月4日

彫刻家・北村西望(本名・西望(にしも))は、明治17年(1884)12月16日長崎県南高来郡南有馬村(現・南島原市)に父・陳連、母サイの四男二女の六番目として生まれる。長崎師範学校に進むが、病気のため中退し、明治36年(1903)京都市立美術工芸学校彫刻科に入学。明治40年(1907)同校を首席で卒業し、同年、東京美術学校彫刻科に入学、同期に朝倉文夫(1883-1964)、建畠大夢(1880-1942)がいた。明治45年(1912)にこちらも首席で卒業する。この間、在学中の明治41年(1908)第2回文展に「憤闘」が初入選し、明治42年(1909)第3回文展「雄風」、明治44年(1911)同第5回「壮者」はともに褒状となった。さらに、大正4年(1915)第9回文展で「怒涛」が二等賞、翌大正5年(1916)同第10回「晩鐘」は特選を受賞、大正6年(1917)第11回文展に「光にうたれた悪魔」を無鑑査出品する。帝展では大正8年(1919)第1回展より審査員をつとめ、大正14年(1925)には弱冠40歳で帝国美術院会員となった。また大正10年(1921)東京美術学校教授となり、昭和19年(1944)まで後進の指導にあたった。このほか、大正8年(1919)曠原社を組織し、同大正11年(1922)西ケ原彫刻研究所を開設、昭和8年(1933)には東邦彫塑院の顧問となるなど、彫刻研究に没頭する。戦前は「寺内元帥騎馬像(寺内正毅)」(大正11年・1922)、「児玉源太郎大将騎馬像」(昭和13年・1938)、「橘中佐」「山県有朋元帥騎馬像」(昭和5年・1930)など、勇壮な男性像で戦意高揚を意図した作品を手がけた。太平洋戦争中には、現在の埼玉県長瀞町矢那瀬の「高徳寺」に疎開をしていた。戦後は平和や自由、宗教などを題材に制作。昭和29年(1954)第10回日展「快傑日蓮上人」や、4年がかりで制作した長崎の「平和祈念像」を昭和30年(1955)に完成する。このほか、広島市民のための「飛躍」など多くの平和祈念像を制作した。また戦後は日展に出品、昭和44年(1969)より昭和49年(1974)まで日展会長をつとめ、昭和49年(1974)日展名誉会長となったほか、日本彫塑会にも出品し、昭和37年(1962)名誉会長となっている。昭和22年(1947)日本芸術院会員となり、昭和33年(1958)文化勲章を受章、文化功労者となる。また昭和28年(1953)武蔵野市の都立井の頭公園内にアトリエを建築、東京都にその後の寄贈分も合わせ計約500点の作品を寄贈し、作品は井の頭自然文化園の彫刻館に陳列される。昭和37年(1962)武蔵野市名誉市民、昭和47年(1972)長崎県島原市名誉市民、昭和55年(1980)名誉都民となった。昭和49年(1974)10月、疎開当時、秩父鉄道波久礼駅長、吉岡嘉平の紹介により熊谷駅前に「熊谷直実像」を制作、引き続き、昭和50年(1975)8月星川に戦災死者の冥福を祈る「戦災者慰霊の女神」を制作した。昭和62年(1987)3月4日に102歳で没した。死没の直前まで創作に励んでいた。

北村西望とカタツムリ

北村西望は、「長崎平和祈念像」の制作中、像の足元に一匹のカタツムリを見つけた。半日して再び像の元に行くと、なんとそのカタツムリは、9.7メートルある像の頂点に登っていたのである。このカタツムリに感動した北村は「たゆまざる 歩みおそろし かたつむり」と詠み、このカタツムリの存在を座右の銘とした。
西望は、「自分は天才ではないのだから、人が5年でやることを自分は10年かけてでもやらねばならない」と語っている。この精神で、102歳で亡くなるまで生涯現役とたゆまぬ努力を貫き通したのである。物事を決心し、カタツムリのように、小さな一歩一歩を積み重ね、大成を目指す「決心之大成」という一節を愛した西望は、不断の努力を続けた。スピードと効率が重視される現代にあって、そこで生きる人間のあり方を考えた時、この理念が感慨深く感じられるのである。

【戦災者慰霊の女神 フォトグラフ】

(撮影:森田康志)

北村西望と富永直樹

昭和59年(1984)3月6日、熊谷市の「星川彫刻通り」構想の中で、「いこいの広場」の1区画東の「若もの広場」に富永直樹「新風」が建立された。このブロンズ像は、改組第3回日展で「日本芸術院賞」を受賞した代表作の一つとして知られている。西望と富永は共に出生地が長崎であり、師弟関係も結んでいる。2人の彫刻家のつながりは、特に互いの出生地である原爆被災地の長崎で結実されている。昭和30年(1955)に北村が「長崎平和祈念像」を建立し、平成9年(1997)に被爆50周年記念事業碑として富永の「母子像」が爆心地公園に建立されている。

【主な参考資料】
東京文化財研究所アーカイブス資料・『日本美術年鑑』昭和62-63年(1987-1988年)版、北村西望『百歳のかたつむり』日本経済新聞1984年、北村西望『北村西望百寿の譜』新三多摩新聞社1982年、熊谷次郎直實公銅像建設協賛会『熊谷之次郎直實』1974年(肖像画出典)
星川彫刻プロムナード研究会
熊谷市立江南文化財センター 山下祐樹

■第20回 北村西望「戦災者慰霊の女神」の複製ミニチュア作製についてのスポット写真

複製ミニチュア像
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複製ミニチュア像
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複製ミニチュア像
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複製ミニチュア像
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戦災者慰霊の女神 フォトグラフ
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戦災者慰霊の女神 フォトグラフ
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戦災者慰霊の女神 フォトグラフ
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戦災者慰霊の女神 フォトグラフ
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■江南文化財センター

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作成日:2021/12/21 取材記者:哲学・美術史研究者 山下祐樹