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熊谷市文化財日記

歴史 地域

空から見た遺跡③ 関東大乱の遺跡か 増田館跡に見る「陣所」とは

知恵の文殊様として知られる野原の文殊寺には、境内林の一角に中世の土塁と空堀の跡が巡っています。西側と隣り合う立正大学との敷地の間に西辺230m、北辺320m程の区画となっており、旧地割から推定される本来の規模は約400×300mの略方形に堀と土塁の巡る城塞の「外郭」をなしていました。また、本堂・庫裏を取り囲むように一辺約110m方形の堀が「内郭」を区画しています。「内郭」と「外郭」の走行・規模は異なり同時期かは疑問で、外郭は境内地外を大きく含むことから文殊寺創建以前に造られた可能性が高いと思われます。「内郭」は文殊寺の本堂-参道-山門と軸線が一致しており伽藍を巡る寺域溝であると推測されます。
昭和35年(1960)撮影の航空写真には境内を囲む外郭線に沿った立木のラインがはっきりと確認され、盾状の屈折ラインは北面に向けた陣形(魚鱗又は鋒矢の陣形)を示しています。北側には古代以来交通の要衝で戦略上の拠点でもある荒川渡河点に成立した「村岡宿」が位置し、康暦2年(1380)小山義政の乱の後、永享12年(1440)の結城合戦まで、何度も「村岡御陣」が設営されました。足利公方をはじめ数千の軍勢が滞留した陣所の位置は不詳ですが、増田館跡は、臨時的・一時的な拠点又は防御施設であった「陣所」のあった可能性が高いと考えられます。
享徳5年(1458)から勃発する享徳の乱から山内・扇谷両上杉氏の抗争(長享の乱1488~1505)以降は、五十子陣(本庄市)を前線に繰り広げられたことから村岡陣の役目は遠ざかったと云え、文明15年(1483)に文殊寺が創建されています。なお、陣所と推定される大規模な外郭線を残す遺跡は応安3年(1370)に足利氏満が滞陣した本田館跡(深谷市)があります。

■江南文化財センター

参考資料ホームページ 江南文化センター「熊谷デジタルミュージアム」へはこちらからどうぞ。
住所 熊谷市千代329番地
開館時間 午前9時~午後5時
休館日 土曜日・日曜日・祝日・年末年始
お問合せ 048-536-5062(熊谷市立江南文化財センター)

作成日:2018/12/22 取材記者:江南文化財センター