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熊谷市文化財日記アネックス

歴史 地域

熊谷出身の飯能焼のデザイナー 1

現在の「玉井寺(ぎょくせいじ)」(熊谷市玉井)

江戸時代末から明治時代にかけて埼玉県の南西部に「飯能焼」という陶器が生産されていました。平成になり飯能市に窯場が確認され、幻ともいわれた「飯能焼」は、皿・徳利・鍋・急須など様々な日常雑器を造り続けていたことが分かりました。飴色やオリーブ色の器肌に白土で模様を描いたものが代表的な製品で、この白線模様は筒書又はイッチンと言い草花文や幾何学文・装飾文字など実にのびやかに迷いなく描かれています。
この絵付を担当した「絵付師」は熊谷市玉井出身の腰塚小四郎という人物で、寛政6年(1794)に玉井村(当時)に生まれ明治9年(1876)に亡くなっています。嘉永6年(1851)に、56歳で真能寺村(当時の飯能市の一部)に移籍した記録(当時の戸籍に当たる『人別帖』管理した寺から移動先の寺院へ送付した「送り状」のこと)があります。おそらく家族とともに生活の拠点を熊谷から移したものでしょう。この時小四郎の妻は34歳息子は2歳でしたが、さらに長女と次男を儲け、次男の倉太郎が後継となり2代に渡り飯能焼の絵付師となっています。小四郎は亡くなるまでの25年の間、「飯能焼」の基礎を築きその発展を支えました。彼の描いた絵には「玉井庵志水」の雅号がみえ、自分の出所玉井を忘れることはなかったと思われます。


【参考文献】
 飯能市立博物館2001 〈特別展〉黎明のとき―飯能焼・原窯からの発信―
 浅見徳男1980    「「飯能焼」陶工の系譜」埼玉地方史第9号

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■江南文化財センター

住所 熊谷市千代329番地
開館時間 午前9時~午後5時
休館日 土曜日・日曜日・祝日・年末年始
お問い合わせ 048-536-5062(熊谷市立江南文化財センター)
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作成日:2020/08/24 取材記者:江南文化財センター