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地域 歴史

第4回 対話篇「熊谷の俳句と熊谷ルネッサンス―金子兜太×山下祐樹―」

根岸家長屋門前の句碑にて(2016年4月4日)

2016年4月、俳人の金子兜太氏と筆者(山下祐樹)は「熊谷の俳句」として詠まれた4つの句と向き合い、建立された句碑を巡りながら、熊谷の歴史や自然風土について対話を重ねた。その内容を紡ぎ合わせ、熊谷ルネッサンスへとつながる思索の歩みとして記し、『熊谷ルネッサンス』に掲載されている。この対話篇に再び着目したい。

■熊谷篇

【利根川と荒川の狭間】
山下 「利根川と荒川の間雷遊ぶ」の句は、利根川と荒川に挟まれた熊谷の地形や風景を思い起こさせてくれます。熊谷を二つの河川を両辺とした舞台に見立て、その中であたかも雷神が躍動しているような想像が膨らみました。

金子 地域の合併により市域が広がり、丘陵や川が増え、熊谷の風景は更に多様になったように思います。熊谷は関東平野の真ん中にあり、利根川と荒川が流れる地として、熊谷独特の風土が息づいている。そう感じるのです。

山下 句の中にある「雷遊ぶ」という表現もこの地域の自然を描写し、その雷の力強さや熊谷の暑い夏を印象付けるものでした。

金子 熊谷の夏が暑いのは有名ですが、その暑さが消えない夕方には雷が到来し、街中に雷鳴が響き渡ります。雷は北武蔵の地を表す自然現象の一つでありますね。大河がもたらす湿潤な環境が雷と関係があるのかも知れません。

山下 夏の雷といえば上州の群馬を想像しますが、熊谷に到来する雷の源泉は赤城山の麓にあるのではないか。熊谷ではそんな感覚があります。上州から北武蔵にかけての地域を、雷が行き交う同じ文化圏として一括りにしても良いように思います。

【暑い夏とうちわ祭】
山下 兜太先生には「白南風とうちわ祭がやってくる」という句があります。「しらはえ」の一節が心地良く、熊谷の夏を彩る「うちわ祭」を表現した象徴的な作品として扇子のデザインにもなっています。「雷遊ぶ」の句には、うちわ祭については登場していませんが、解説の終わりに一言触れることにしました。これも「白南風」の句が影響していると思います。

金子 一つの句が更なる想像を引き出すことは面白いことです。叩き合いの轟音と雷鳴が共鳴する。そのような風景も熊谷の夏の風物詩として、多くの人々が思いを馳せていることでしょう。勇壮に響く祭りと雷が放つ印象は、熊谷の暑い夏がやってくるという気持ちの高まりを感じるに難くありません。

■大里篇

【富士山または筑波山】
山下 「草莽の臣友山に春筑波嶺」。この句を拝見した時、私は直感的に大里の根岸家長屋門の風景が思い浮かびました。春となれば、風格ある長屋門と咲き誇る桜とのコントラストが美しい場所です。一方、根岸家に身を置き何を眺めるか。句の中では富士山ではなく筑波嶺と記された。その点にとても興味が湧きます。




金子 荒川をまたぐ久下橋から雄大な富士山を見ることができますが、大里の胄山に至りますと、富士山の方角には比企丘陵の豊かな森が広がり、目にすることは難しい。ところが東の方向に目を向けると視界が広がり、遠く筑波山が浮かんでくる。そんな情景が込められています。

山下 大里の位置からすると、筑波山は北の方角にあるような印象を私は受けたのですが、地図で確認すると確かに東にあることが分かりました。あわせて、北や西にも目を向けると多くの山々がそびえています。熊谷はこうした山並みを見通せる地にあることを改めて認識することになりました。

金子 東に筑波山、北には男体山や赤城山、西には榛名や妙義、遠く白肌の浅間山などがあり、熊谷を取り囲んでいるかのようです。すると、こうした山脈とここに住まう人間を対比するかのごとき感覚が生じ、そこに根岸友山という人物の存在が思い起こされるのです。

大里・根岸家主屋において江戸時代の敷地図を
見ながら当時の歴史に想いを馳せる。
右から金子兜太氏、山下祐樹、根岸家当主の
根岸友憲氏(左前方)

【草莽の志士】
山下 根岸友山と春霞の先にある筑波嶺の対比。孤高の友山が経験した激動の時代を想像するに至りました。息子の武香と共に幕末から新たな時代の幕開けを飾った大里の誇りであります。そして句に示されている「草莽」という表現が私の心に強く響きました。この言葉にいかなる思いを込めたのでしょうか。

金子 この「草莽」は、在野にあり地位を求めず、国家存亡の危機の時、国家への忠誠心とともに行動する人物「草莽之臣」を意味しています。友山は幕末の志士として活躍し、困難な問題と立ち向かいながら、郷土への愛着を忘れなかった。在野から為し得ることの強い信念と意志、その可能性を知らしめたのではないかと考えています。

■妻沼篇

利根川のほとりに荻野吟子生誕の地があった。
春になると土手には菜の花が咲き誇る。
 

【荻野吟子の人生】
山下 妻沼には国宝「歓喜院聖天堂」をはじめ多くの文化財や建造物があり、時代を超えて継承されてきた歴史や独特の文化があります。そうした妻沼の歴史の中で、俵瀬の地に生まれた荻野吟子が放ち続ける光はとても大きいと感じています。だからこそ、「荻野吟子の生命とありぬ冬の利根」の句は特別な感覚を伴うものです。

金子 荻野吟子の人生が利根川を前にした妻沼の地から始まり、その時代の苦難に翻弄され続け、それでも決してあきらめずに日本初の女性医師となった。このことは熊谷の誇りとして広く語り継ぐべきことでしょう。吟子が切り開いた女性の社会進出という道は現代まで続いているように感じます。

山下 私は荻野吟子がキリスト教の理想郷を目指して北海道に移住し、地域医療のために開業した瀬棚を訪れたことがあります。吟子はこの地で夫を亡くすなど悲劇に見舞われています。吟子が歩んだ道は平坦ではありませんでしたが、様々な障壁を乗り越えた不屈の精神が利根に面した地で育まれたことは感慨深いことです。

【利根の四季】
金子 若き吟子が経験した利根の冬。寒冷な冬の利根川と吟子の熱き生命が密接に関わり合う。このことが「生命とありぬ」という文言に結び付きます。この地の特徴としては、冬には赤城山からの寒冷な「赤城おろし」が吹き付ける。夏は豪雨による洪水にさいなまれる「水場の地」であったこと。このような自然の特徴が吟子の生命と強い精神力を育てたのでしょう。

山下 冬を乗り越え、春になると俵瀬の土手沿いには無数の菜の花が咲きます。対岸を眺めると群馬の春めいた風景があります。

金子 赤城おろしが止み、春の彩りを感受する。利根の恵みとともにある春の季節が、吟子が持ち続けた温和な愛にもつながっているのだと思います。

■江南篇

【文殊寺での逸話】
金子 江南の地の句を詠むとき、私はまず文殊寺のことを思い出しました。こう申しますのも、かつて私は病を患い都内の大学病院に入院していました。ようやく退院となり、車で熊谷の自宅に向かう途中、文殊寺に立ち寄ったのです。その際、車から降りてから間もなく私は転倒したのです。病み上がりの体で足腰が弱っていたのでしょう。近くにいた家族は心配しましたが、受け身が良かったのか、擦り傷くらいの怪我で済んだのです。何とも助けられた、「文殊の地」の句はそんな逸話とともにあります。

山下 そのようなことがあったとは。大事に至らず幸いでした。合格祈願に訪れる方が多い文殊寺は度重なる火災を受けてきましたが、参道にある朱の仁王門は江戸時代の形態を今に残しています。江南には幼少期から行く機会も多く、私が働く文化財センターもあり、約10年を過ごしてきましたが、風光明媚な自然豊かな場所で時がゆったりと流れる。そんな実感があります。

【丘陵の眺めと飛び交う蛍】
金子 私は江南の句の構想を練る中で高台からこの地域を眺めたことがあります。比企の丘陵と深い森が覆う間に田畑や小川が広がる。実に自然に溢れた場所だなと思いました。

山下 江南の各所には蛍が自生する川があり、初夏の夕暮れには蛍の光が飛び交います。句に込められた「行雲流水」の語源を調べたところ、中国北宋代の『宋史』に辿り着き、その意味を知るうちに、江南の風景に相応しい言葉であると感じています。

■ 熊谷ルネッサンスという旅

山下 私は埼玉新聞紙上で「熊谷ルネッサンス」という連載を担当し、熊谷の歴史を振り返りながら、今に続く熊谷を記すという試みを続けてきました。兜太先生の俳句に描かれるように熊谷の奥深さを改めて感じています。

金子 熊谷の郷土に注目し、そして後世に伝える、そのような取り組みに対して、私も力添えすることができたらと思います。私は俳句という方法によって日本の風景や心を描いてきましたが、やはり自分の住まう熊谷に対する意識は特別です。ぜひ、それぞれが持つ方法や信念で進めていくことにしましょう。

山下 「熊谷の俳句」で描かれた風景や先覚者の姿と、「熊谷ルネッサンス」で目指した郷土への想いは通じ合うのではないかと勝手ながら感じています。これからも私なりの表現で熊谷の時空を超えた旅を続けていきたいと考えています。貴重なお話をありがとうございました。

■第4回 対話篇「熊谷の俳句と熊谷ルネッサンス―金子兜太×山下祐樹―」の詳細情報

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作成日:2019/11/01 取材記者:熊谷学ラボラトリー 山下祐樹