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熊谷・軽井沢・プラハ

地域 歴史 ~2023年迄掲載

第10回 熊谷俳句文化史の継承

森村誠一氏と著者、檀ふみ氏と(2015年)
森村氏から『青鮫は来ているのか』巻頭言を寄稿して頂いた。

■熊谷俳句文化史の系譜 ―兜太から次世代へ―

俳人の金子兜太氏の追悼祈念として、また生誕100周年記念事業として全国各地で兜太俳句の顕彰が進められた。戦後俳句の牽引者として各分野に影響を与え、惜しまれつつも一つの終着点に至った現代俳句の巨星の存在を改めて強く感じる機会となった。
兜太俳句ととともに熊谷の地に根差した俳句文化の発信を行っている人物が小説家の森村誠一氏である。筆者が兜太文学の継承を目指して紡いだ『青鮫は来ているのか ―金子兜太俳句の構想と主題―』において巻頭文を寄稿して頂いた。
森村氏は俳句分野にも精通し、写真俳句のジャンルを開拓する取り組みを進めてきた。現在では各メディアで写真とともに俳句を詠じる手法が一般化し人気を集めているが、その原点は森村氏の構想であったことは明らかである。また、一方で芭蕉や一茶論を発表し、「奥の細道」をめぐる紀行エセーは多くの関心を集めた。森村文学はサスペンスや推理作品によって世界的な評価が称揚できる中で、俳句に対する関心が日本文化の色彩を濃くし、小説読者の枠を超えた新たな一面を我々は感得することができる。
森村氏と兜太氏は平和主義の文化人としても共通し、熊谷に対する愛着を根底に据えた文学表現に醍醐味がある。この意味からしても両者は熊谷で表現活動を行う筆者にとって重要な存在である。『青鮫は来ているのか』が兜太氏と森村氏の助力がなければ到底達し得ない作品であった。今回は同書の終章として巻末に記した内容を掲載し、熊谷俳句の継承に想いを馳せたいと考えている。

■『青鮫は来ているのか ―金子兜太俳句の構想と主題―』終章
おわりに ―青鮫が来ている

産経新聞
「金子兜太さん絶筆の9句『旅続ける想い』」

私が金子兜太先生の自邸「熊猫荘」を初めて訪れたのは2016年2月である。熊谷市の記念事業『金子兜太 熊谷の俳句』として市内に句碑を建立するに併せて、解説板を設置することになり、その解説文を私が記すことになった。兜太先生の句解釈を聞き取り、それを基礎として文章を練り上げるというものだった。その後も何度かに亘り訪れた「熊猫荘」であったが、今考えると、対話をした窓辺にある風景が、「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」の主題となった庭に他ならなかった。その後、私が埼玉新聞に連載していた『熊谷ルネッサンス』を書籍化する際には、「熊谷の俳句」を織り込み、共著という位置付けで刊行した。
完成後の2017年12月19日には再び「熊猫荘」を訪れ、書籍の報告とともに、秩父・熊谷に関する対談を行った。その日は小春日和で穏やかな日差しが室内に入り込んでいた。まさにその陽光の下には、青鮫の庭が存在していた。対談を行った翌々月の2月20日に兜太先生は逝去された。私と兜太先生との直接的な関わりはこの数年に限られている。俳人兜太と数十年以上の親交があった方々が数多く居られる中で、この最晩年の数年をご一緒させていただいたことは私としても身に余る貴重な機会であり、極めて幸運であったと感じている。また、兜太先生とは埼玉県立熊谷高等学校(旧制熊谷中学)の同窓で先輩後輩にあたり、著作刊行以降においてクローズアップされることが度々あった。そして、兜太先生の没後、私は私なりの方法で哀悼の意を表したいと考えていた。その内容を報告するとともに、そこで得た経験が本書に至るまでの下地となっていたことも明かしたい。
2018年7月、熊谷市の名勝「星溪園」にて、「熊谷の俳諧研究会―熊谷の句碑と金子兜太文学―」と題したフォーラムを開催した。私は兜太俳句論と市内の俳諧文化を主題とした講演と、俳人で熊谷市俳句連盟名誉会長の天貝弘人氏と「俳諧と新たな俳句の対流について」と題した対談を行った。会場には俳誌『海程』の同人や、俳句愛好者、兜太俳句のファンが訪れた。新たな時代を開拓した兜太俳句に想いを馳せながら、その壮大な文学像を如何に継承していくか意識を共有する機会になった。
また、兜太先生の没後、兜太句碑をはじめ市内にある句碑の概要を集成する資料を作成したいと考え、市内各所を巡り調査と執筆を進めた。そして、同年8月19日にリーフレット『熊谷句碑物語―熊谷の歴史を彩る俳句と句碑をめぐる旅―』の発行に至った。熊谷市内には本書にも示した「熊谷の俳句」の句碑のほか、常光院、龍泉寺、埼玉県立熊谷高等学校に兜太句碑が建立されている。
江戸時代以降、熊谷においては俳句の原点となる「俳諧」の文化交流が盛んであり、多くの俳人が熊谷から生まれ、また著名な俳人が熊谷を訪れたという歴史がある。江戸時代を代表する俳人の松尾芭蕉の句碑もあり、後の時代の熊谷人が「俳聖」を顕彰する「芭蕉句碑」を複数建立した。これらに加えて、近現代における熊谷の俳人の活躍を明らかにする句碑や、著名俳人が熊谷を訪れた足跡を示す句碑が存在している。このリーフレットは芭蕉から兜太に至る俳句文化の継承と、句碑群の再認識を目指すものであり、幸いにも多くの関心を集めている。また、同紙の刊行と併せて熊谷の歴史や芸術文化を研究し発信する熊谷市文化遺産研究会を発足させた。

埼玉新聞 書評『青鮫は来ているのか』
(現代俳句協会 元「海程」同人   
          篠田悦子氏 執筆)

このような経過の中で私は兜太先生の「産土」の地である皆野にも度々訪れることになった。数多く建立されている兜太句碑、生家である壺春堂、地域での顕彰を進める新井武平商店などを巡った。また、兜太先生が愛した吉見屋の鰻を味わった。まさにそれらは兜太巡礼の旅であった。旅路の中で吉見屋の離れ座敷にも立ち入る機会を得た。普段は非公開であるが、兜太先生と親交があった店主・塩谷容氏からの思い掛けない御配慮の賜物であった。



そこは水原秋桜子や石田波郷のほか、父・金子伊昔紅をはじめ秩父俳壇の面々が集い、語り合い、文化運動の拠点となったといわれる場所であり、現代俳句を代表する俳人達も訪れている。各所に伊昔紅、兜太、弟の千侍が揮毫した色紙や掛け軸が飾られ、何処となく芳醇な「薫り」が漂っているように感じた。
私はその空間に身を置いた瞬間、本書の構想が突如として芽生えたのである。そして私は目を瞑り、青鮫が力強く大海原へと泳ぎ出す姿を想像していた。
私は自身の知見と技量を凌駕する困難な挑戦に一歩踏み入れ、何度も立ち止まりながら、今に至り、筆を擱こうとしつつも、まだ到達点ではない。そのような想いに駆られている。それでもなお、一種の問題作と自認しつつ、新たな金子兜太論として世に問うことができたのではないかと考えている。読者諸氏に厳しい御批評とご教示を委ねたい。
結びに本書の出版に際して、巻頭言の執筆を快諾頂いた森村誠一先生、『熊谷ルネッサンス』及び『熊谷句碑物語』と同様にデザイン性の高い的確な編集作業を進めて頂いたオーケーデザインの皆様、そして本書に向けて温かなご理解とご協力を頂戴した金子眞土さんに感謝申し上げたい。また、本書の執筆に際してご教示を頂いた皆様、私の大学時代の指導教授で北欧哲学者の尾崎和彦先生に心より御礼申し上げる次第である。
かくして筆を擱こうとした瞬間、私に近づく何らかの存在に気付く。青鮫だ。嗚呼、青鮫が来ている。青鮫は確かに存在しているのだ。

薔薇の芽に青き水面を重ねつつ


                  サカナクションを聴きながら
                    塩古墳群の森を通り抜けて

 
山下祐樹

■第10回 熊谷俳句文化史の継承のスポット写真

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作成日:2020/06/11 取材記者:哲学・美術史研究者 山下祐樹