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熊谷・軽井沢・プラハ

地域 歴史 ~2023年迄掲載

第28回 熊谷のガストロノミーとカルチャー 

埼玉新聞連載「熊谷ガストロノミー」から熊谷の食文化を発信する

■第1章 サブカルチャーの原郷

 サブカルチャーとは何か。「サブ‐カルチャー《名》(subculture) 社会の支配的、伝統的な文化に対し、その社会の中のある特定の集団だけがもつ文化的価値や行動様式。大衆文化、若者文化など。下位文化。副次文化。【精選版 日本国語大辞典「サブカルチャー」解説】」と示されるが、思考の転換を図ることで、サブカルチャーは、カルチャー(文化)と対立するものではなく、相互を融合させ、下支えするものとなる。そして、地域の庶民文化が、熊谷のブランドに価値を与えるという構図の原点にサブカルチャーは存在している。
 私は【熊谷ルネッサンス】(文化・歴史・芸術)、【熊谷ダイナミズム】(スポーツ・伝統芸能・祭礼)、【熊谷ガストロノミー】(食文化)をテーマに、熊谷の歴史文化芸術を探求してきた。同名の著作を刊行しているほか、埼玉新聞での連載を担当してきた。これらの根底には、カルチャーとサブカルチャーの融合という目的意識が存在している。

■第2章 ガストロノミーとサブカルチャー

 熊谷ガストロノミーの「ガストロノミー」とは何か。古代ギリシア語の「ガストロス(消化器)」と「ノモス(学問)」を語源として、美食の探求などを意味するほか、料理の文化的要素や伝統的なレシピに光を当てる概念として知られている。人々の生活に密接に関係するサブカルチャーと、その後、歴史上の重要な要素として認識されるカルチャーとの相互性は、特に食文化の中で息づいている。
 熊谷の歴史を紐解く中で、庶民的なサブカルチャーが歴史芸術的価値を有するカルチャーへと変化しながら引き継がれてきた事象は多い。



 原料から商品へという流れは、その素材から文化的要素への昇華を意味すると考えられる。この点からも、最終的な商品を着目するだけでなく、生産工程の全てを意識することによって、郷土の食文化やサブカルチャーの特色に手を伸ばすことができる。

■第3章 熊谷の歴史と食文化

「盆と正月がいっぺんに来た」。食生活が豊かになる前の時代を知る人が、豪華な食事を前に語る一幕がある。大切な客人を迎えるために走り回ることを語源とする「御馳走」は、後に食事のもてなしを意味するようになった。
 日本近代経済の父といわれる渋沢栄一は熊谷を若い頃に訪れ、妻沼聖天山で食事を御馳走になったことを記している。晩年には、現在の熊谷市名勝「星溪園」で昼食を楽しむなど、熊谷の食を味わったことが知られている。
 熊谷は荒川と利根川の流れや、豊富な湧水の恩恵を受けながら、人々の生活が営まれてきた。縄文時代前半は狩猟採集社会と考えられ、クリ・クルミなどの木の実、川魚類を捕獲し食料としたとされる。
 縄文時代中期、江南地域では、シカやイノシシなどの動物を捕獲するための「落とし穴遺構」が確認され、肉食生活の原点を見ることができる。弥生時代に至ると大陸から米作りが伝えられた。
 熊谷ラグビー場付近に位置する弥生時代中期の北島遺跡では、「かんがい施設」が出土したほか、東部の池上遺跡では、弥生時代の米粒が発見されている。
 江戸時代以降、熊谷名物のうどんは郷土の食文化として定着した。明治時代、麦王(麦翁)・権田愛三は、麦作の改良に力を注ぎ、生産量の増大に貢献した。戦後、熊谷地域は本州最大の小麦生産地となり、製粉業と製麺業が隆盛し、地粉を活用した「熊谷うどん」は人気を集めている。つけ汁で、ゴボウのきんぴらやホウレンソウ、ヤマトイモを添えるなど独自のレシピが生まれている。
 熊谷には多くの文化人が訪れて、食を堪能した歴史がある。「この地は桃源郷のようだ」。江戸時代後期を代表する知識人で画家の渡辺崋山は、天保2(1831)年の秋、田原藩(愛知県)の藩士として旧領地に位置する旧幡羅郡三ヶ尻村周辺の調査を進め、報告の中でその一文を記している。
 崋山を魅了したのは熊谷地域の食文化だった。同書の中では、多様な農作物と食品を次のように記している。
「米は粒が大きく、玉のごとく輝き、大麦と小麦、そばの味も良い。大根は大きく、江戸とは比べものにならないほどに味が甘美。人参、竹の子、なす、里芋、ネギ、すいか、まくわ瓜なども良い。荒川では漁が盛んで、鮎やサケ、マス、うなぎなど川魚が美味。川原ではヨモギやセリが採取できる。鳩やキジなどの鳥は良品で江戸へ出荷される。果実では、すもも、梅、桃、あんずなどが多く収穫される。特に柿の実が良い」。
 崋山は、三ヶ尻や近隣村での見聞を通じて、熊谷周辺の豊かな食を体感し味わい、桃源郷を連想したと考えられる。現代も豊かな農作物によって熊谷の魅力ある食文化が引き継がれているのである。

■第4章 金子兜太と郷土文化

 戦後俳句の巨星・金子兜太は、秩父に生まれ、熊谷に住み、熊谷を表現した俳句を多く残している。兜太氏はこの地を、「利根川と荒川の間雷遊ぶ」と詠んでいる。これらの俳句は熊谷の郷土文化を記した貴重な遺産であると考えられる。

梅咲いて庭中に青鮫が来ている 『遊牧集』
林間を人ごうごうと過ぎゆけり 『暗緑地誌』
犬一猫二われら三人被爆せず 『暗緑地誌』
夕狩の野の水たまりこそ黒瞳 『暗緑地誌』
つばな抱く娘に朗朗と馬がくる 『詩經國風』
牛蛙ぐわぐわ鳴くよぐわぐわ 『皆之』
寒波山並われ腰立たず這い廻る 『皆之』
たつぷりと鳴くやつもいる夕ひぐらし 『皆之』

 金子兜太は、俳句は第二芸術と評価されたことに対し、俳句の芸術性を高く称揚したことで知られる。あたかもサブカルチャーの中にカルチャーがあるという観点を提供しているように
                      思える。

■第5章 サブカルチャーの時代的変遷 ―熊谷の文化と民藝運動―

熊谷ロータリークラブでの
「熊谷のサブカルチャー・ガストロノミー」の講演

 熊谷の民衆信仰・庶民が愛した文化(サブカルチャー)は、評価される文化遺産・文化財(カルチャー)へ昇華した歴史を有している。
 その一方の動きとして、柳宗悦「民藝運動」が連想できる。このムーブメントは、庶民の手による工芸品、その美への再認識を高めたものであり、民藝運動は美術館的カルチャーに対抗するサブカルチャーとしての性格を包含しているといえる。
 柳は、東京国立近代美術館への対抗として「日本民藝館」を設立したのである。この決意は後年、新たな動きを生み出すことになる。つまり、現在では「民藝運動」での作品群は、近代日本の美術・芸術分野における重要なカテゴリーとして認識され、東京国立近代美術館で企画展が開催されるまでにサブカル
                      チャーの概念が変化したと考えられる。
 サブカルチャーからカルチャーへという伏線の中で、金子兜太俳句を意識しながら、熊谷ガストロノミーを通じての、新たなる熊谷の民藝運動が必要であると感じている。

■第28回 熊谷のガストロノミーとカルチャー のスポット写真

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■熊谷市文化遺産研究会

お問い合わせ 熊谷市立江南文化財センター 電話番号:048-536-5062
ホームページ 「熊谷市文化遺産研究会」ホームページはこちらからどうぞ。
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作成日:2023/02/21 取材記者:哲学・美術史研究者 山下祐樹