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熊谷・軽井沢・プラハ

地域 歴史 ~2023年迄掲載

第30回 渡御祭の歴史 -祭礼行事における神輿渡御と巡行祭をめぐって-

「川越氷川祭礼絵馬」 天保15年(1844)(川越氷川神社蔵)

■第1章 絵図から見る神輿・出し

熊谷うちわ祭での神輿渡御・行宮前

第1節 山車(出し)の原型 -神輿との関わり-

◆「川越氷川祭礼絵馬」
天保15年に、川越氷川神社本殿改築の上棟式を祝って、鳶連中が奉納した大絵馬。絵馬内の記載には「応需 辺雪渓」とあり絵師の名前であると推定される。
「出し」を中心に据え、役員と鳶職・囃子連中が登場している。出しは一本柱の形に統一された形で上部に高欄が付き、出し人形が乗っている。弁財天や法師、武士、鶏などの造形が見える。最下部は神輿のように多くの鳶職が担ぎ上げている様子が分かる。各町が独自の奉納の出しを制作し、神輿渡御とともに巡行され、祭礼行事の華となった。

第2節 神輿渡御と出し・屋台巡行

◆氷川祭礼絵巻(川越氷川祭)(ニューヨークパブリックライブラリー蔵)
(出典:『川越氷川祭りの山車行事 調査報告書・資料編』川越市教育委員会)


      (氷川大明神 幟旗)    神籬(ひもろぎ)


                       神輿         獅子      太鼓


       御用金           出し        獅子舞     ささら花笠


   猩々(しょうじょう)屋台                        籠


                               出し   芸能・囃子屋台


     出し   芦刈仕方万歳 芸能屋台


                          笛吹き


                                        出し   芸能屋台


 能楽屋台             芸能屋台         鬼                鬼
                          (碓氷貞光・坂田金時・浦部季武・渡辺綱・源頼光)

第3節 曳山と神輿渡御

◆「大津曳山祭 四宮祭礼摺物」 江戸時代後期(個人像)
(出典:『大津曳山祭総合調査報告書』滋賀県・大津市教育委員会ほか)

神輿の巡行


曳山の概要

■第2章 神輿祭・渡御祭の歴史

第1節 神輿・渡御祭の概要

◆神輿と神輿祭
祭礼の渡御のとき、神霊の乗り物として担ぐもの。「しんよ」とも読み、「神輿・御輿(みこし)」とも書く。日本の神霊は、「日常は天空や海のかなたにあり、人の招きに応じて定期的に、あるいは神霊の意志によって臨時に、人里を訪れて祭りを受け意志表示をするもの」であった。このことから社殿も、祭りのつど新築し、祭りが終われば取り壊した。社(やしろ)は屋代(やしろ)、つまり祭りのときに社殿を造営する場所の意であった。
神社建築が進み、社殿は常設のものになった。しかし神霊は祭りのたびに訪れてくるものだという観念は残留し、社殿から出発した神霊が村内を巡行する形式を生じた。その神霊の憑りどころになるのが、笠鉾(かさぼこ)、山車(だし)、梵天(ぼんでん)などである。
神輿もその一つであった。神霊の巡行は本来深夜に行われるものであったが、平安時代から京都を中心に昼祭りが多くなり、昼間の神幸が一般化すると見物人も集まり、「見る祭り」へと変化してくる。そのため神幸の行列も華麗となり、中心となる神霊の乗り物に神輿を用いることになった。
神輿は皇室で用いられる「鳳輦(ほうれん)」(鳳凰の飾りがある車体)に擬したものとされ、形は四角、六角、八角などがあり、屋根の上には鳳凰(ほうおう)または葱花(そうか)を置き、台には2本の担ぎ棒をつけるのが通例である。素木のもの、小型の子供神輿、樽神輿、榊神輿などがある。神幸の際は、まず神社で「御霊移し」(みたまうつし)を行い、行列では中心に位置する。氏子の若者などがそろいの白丁や晒し、法被(はっぴ)やなどを着てねじり鉢巻姿で、掛け声をかけながら練り歩く。神輿振りといって、道中で右往左往するなど各祭礼で独自の動きが見られる。
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館):井之口章次の解説より

第2節 熊谷八坂神社祭礼行事での渡御祭の歴史

◆神輿渡御の祭礼から
熊谷八坂神社祭礼行事(熊谷うちわ祭)の原点祭礼については、正徳年間(1711~16)において神輿渡御が行われていた記録が残っている(「熊谷宿祇園祭祭礼神輿渡御由来覚」)。これは旧暦 6月21・22日の両日、町中の寺院ごとに別々に行なわれていたものであったが、江戸時代の寛延3年(1750)4月に、町民が宿場役人に請願し、許可されたことにより、各町内が同日の夏祭りの形態として地区ごと合同での開催も含めて実施されるようになった。宝暦3年(1753)までは仲町の奴稲荷の神輿を借用して渡御が行われる時期もあったとされる。

◆祭礼の中興
天保時代、祭りの原点ともいえる全町区合同での神輿渡御が開始された。神輿が、天保元年(1830)6月に、愛宕神社の別当職である大膳院15世秀宝と、町役人の石川兵左衛門の発起によって、町民から浄財を募り、幡羅郡弥藤五村(現、弥藤吾)の修験者によって造られている。なお、現在の祭典中の3日間、神輿が安置される「御仮屋」(行宮、御旅所ともいう)の正面に、名前が記された提灯が掲げられているが、それは熊谷の祭りを始めた宿役人の家で、熊谷の草分け六人衆とも呼ばれている、鯨井久右衛門、布施田六左衛門、石川兵左衛門、布施田太郎兵衛、竹井新右衛門、石川藤四郎の名である。
各町の若衆が白丁となって重さ200貫(975キログラム)もの神輿に奉仕して、祭典初日の未明に荒川に渡御が行なわれ各町の町内渡しとし、3日目に還御の儀が行なわれていたと言い伝えられている。この神輿は戦災によって焼失し、現在の神輿は昭和23年(1948)に新調されたものである。
藤間憲一・山下祐樹『熊谷うちわ祭の歴史』(熊谷八坂神社祭礼行事保存会)

■第30回 渡御祭の歴史 -祭礼行事における神輿渡御と巡行祭をめぐって-のスポット写真

■熊谷市文化遺産研究会

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作成日:2023/07/07 取材記者:哲学・美術史研究者 山下祐樹