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熊谷・軽井沢・プラハ

地域 歴史 ~2023年迄掲載

第31回 愛染堂と絹産業遺産群

愛染堂と絹産業遺産群
―尾高惇忠筆の奉納額から捉える地域の文化―

■序論 熊谷の歴史・文化財から捉える産業文化と愛染堂

 熊谷市の歴史の幕開けは、旧石器時代と考えられ、豊かな自然に恵まれる中で縄文時代から弥生時代へと連綿とした人々の営みがあった。古墳時代には国指定史跡「宮塚古墳」をはじめ多くの古墳が築造され、奈良・平安時代については、西別府に位置する国指定史跡「幡羅官衙遺跡群」などの存在が確認されており、その当時の歴史を解明するための重要な遺跡に位置付けられている。平安時代以降においては、多くの武士団が出現し、熊谷次郎直実、斎藤別当実盛など後世に名を残す武士が活躍した。江戸時代には中山道の宿場町として栄え、秩父往還などの街道、さらに荒川・利根川には渡船場や河岸があり、交通の要衝として発展した。妻沼には国宝「歓喜院聖天堂」が建造され、日本を代表する装飾建築の美とその歴史を今に伝えている。近代、多くの先覚者たちが、産業や文化など多方面で活躍し、熊谷地域の発展の基礎を築いた。昭和時代以降、本市は県北の雄都としての誇りとともに周辺の地域との調和を図りながら、躍動的な産業の発展と芸術文化の振興が進められた。
 本市の歴史を今に伝える多様な文化財と文化遺産はかけがえのない存在であり、様々な政策と関係があるとともに、郷土の文化振興を進める役割を担っている。近年の熊谷市における文化財の分野では、妻沼聖天山本殿、「歓喜院聖天堂」の国宝指定や、常光院の仏画「絹本著色阿弥陀聖衆来迎図」の重要文化財指定、「西別府祭祀遺跡出土遺物」及び「諏訪神社本殿」の県文化財指定、熊谷うちわ祭「熊谷八坂神社祭礼行事」の市文化財指定などをはじめ、市内建造物や伝統芸能に関する啓発や発信、市内遺跡発掘調査での様々な成果もあり、文化財保護の多様な取り組みがあった。
 このような中、愛染堂保存修理事業は特筆すべき意味を持って取り組まれることになった。それは本市全体の文化遺産の保存とも関連した地域の信仰と有形の文化財保護の方向性と密接に関係した多面的かつ複層的な内容を含んでいたといえる。
 熊谷市の東部に位置する星宮地区は田園風景が広がり、星川や古宮水路などの水流が地域の風景を形成している。域内には浄泉寺、梅岩院、古宮神社、三嶋神社などの古社寺や、板石塔婆、石造物などの歴史・民俗資料が数多く残されている。各社寺が有する文化財も多く、その他、無形の文化財としても池上獅子舞や下川上獅子舞などの伝統文化が継承されている。この星宮地区の歴史文化の中に、宝乗院愛染堂の存在がある。これは星宮を象徴する文化遺産の一つであると表現することができる。
 愛染堂及び安置された愛染明王像の継承は、地域の信仰と深く関わり熊谷市内外を含めた地域への影響は多大なものであったが、昭和時代前半に盛んになっていた愛染明王信仰も染色業の衰退とともに信仰集団に変化が見られ、信徒団体は減少した。檀家数が少ない中で地域を中心とした信仰の形態も変化し、縁日の開催も危ぶまれ、休止状態にあった。こうした状況とともに愛染堂の老朽化が見られ、20世紀に入り、屋根の一部が落下するなど毀損状況は悪化していた。この建造物の保存不全に対して、現在も残る染色業者をはじめ地域の信仰者、熊谷市の商工団体関係者を中心に愛染堂保存修理の要望が高まりを見せた。これに対して熊谷市は文化財保存修理事業の実施を決定し、官民協働による保存修理委員会の運営により、寄附募集や工事計画の策定・実施が進められた。その間、地元の立正大学など研究機関からの協力もあり、産官学、世代を超えた愛染堂保護のためのコミュニティが結成された。

■1.星宮地区の歴史

天正18年(1590) 忍城主・成田氏から引き継ぎ、松平家忠の領地となる。
天正20年(1592) 松平忠吉の領地となる。
慶長5年(1600)12月 幕府の直轄領となる。
寛永10年(1633) 忍城主・松平信綱の管轄地。その後、栃木壬生城主で忍城を兼ねた阿部氏が、忠秋、
          以降の9代正権まで約180年に及び支配する地域となる。
文政6年(1823) 松平忠堯の領となり子孫が幕末まで支配を担う。

■2.明治以降の星宮地区

明治2年 忍藩に属し、忍県、熊谷県以後。
明治4年11月 埼玉県となる。
明治22年 池上、下川上、上池守、下池守、皿尾、中里、小敷田の7ヵ村合併し星宮村となる。
昭和30年7月20日 町村合併促進法により、行田市に編入したが、
同年10月1日、池上、下川上が熊谷市に分離合併。

■3.星宮・地名の起源

・7ヵ村合併の際、「北斗妙見信仰」(北極星・北辰への信仰)に基づき、7つの村を北斗七星に見立てたこと
 による地名が名付けられた。
・村内に数多くのお宮が星のごとく所在していたのでこの地名が生まれた。
・7ヵ村合併の際、村内を流れる星川と古宮の地名(神社・水路など)の星と宮を取り「星宮」とした。
 (有力説)

■4.熊谷市指定有形民俗文化財「愛染明王」

 本像は、宝乗院愛染堂(熊谷市下川上)の本尊として伝来したもので、大同元年(806年)、日本一木三体の一体(その他、陸奥国、筑紫国)として造立されたとの伝承が語り継がれている。
 造立の年代については、彫刻の様式からすると、伝承とは異なるが、江戸時代前期の造立と解釈しておくことが妥当と思われる。おそらく江戸の秀逸なる仏師の手によるものと推定できる。像高は、髪際高(髪際までの高さ)で約三尺六寸(1.09メートル)を計り、像高1.45メートルを誇る。台座と合わせると、半丈六(2.42メートル)を超える大きさとなる。
 仏像の細部に目を向けると、三目六臂の仏相であり、表面の赤色は実在の日光の輝きを示している。三目の怒相は三界(宇宙)の邪悪を払う形相を示している。六臂の中において左の上手の拳は、願望を成就することを、右の上手に蓮華を持つのは汚れを払い円満をもたらすことを意味している。右の中手には五鈷杵(ごこしょう)と、左の中手には金剛鈴を持っており、これらは衆生からの救済を願う形仏相である。左の下手には金剛弓、右の下手には金剛箭(こんごうや)を持ち、これは煩悩などを払い、悲観厭世の妄心を射抜くことを示している。毛髪の逆立相は魔縁降伏の相を示し、頂に獅子冠は、七曜の吉凶逆転を予期させるものである。
 本像は、近世仏像彫刻の優れた作例の一つであるといった美術的価値をもつとともに、染色業者による愛染信仰の本尊としての歴史的、民俗的資料価値を有している。愛染明王は、サンスクリット語では「ラーガ」、「ラーガラージャ」、「マハーラーガ」と称せられている。「ラーガ」とは赤を意味し、愛欲に例えられている古代インドの神の名である。ラーガの当初の意味は、染付け、着色であり、それが転用し愛着や執着の意味をも持つようになった。ラーガは、色の中に置いても赤色を示すことが多く、このことが、愛染明王像の身体の色が赤く着色されていることと関係があるように思われる。また、日輪を表す円形をしている光背においても、赤色となっている。

■5.愛染堂における絵馬群

 江戸時代中期以降、愛染堂は染色業者からの信仰や「愛染」から見て取れる恋愛成就の願いが込められてきた。愛染堂内には奉納額や絵馬が複数掲げられ、その信仰の様子が垣間見える。また、欄間に組み込まれた彫刻も秀逸で、肉彫りなどの技術が見られる。これらは愛染堂に伝わる多くの想いや技術を今に伝えている。

「藍染絵馬(あいぞめえま)」
藍染めを業とする紺屋が商売繁盛、技術向上のため奉納した絵馬。紺屋での作業風景などが詳細に描かれている。染色関係の絵馬には、天保年間の紺屋の絵馬など4枚あり、熊谷市有形民俗文化財に指定されている。その中の1枚「藍染の図」には、藍場に甕が20余り並び、7人の男女がおのおの違った作業に励んでおり、糸染めの手順に従い、最初の染めから、絞り、染め、絞りといった各人の仕事や服装を見ることができる。他の絵馬には、浸染めする人、庭先で商談するする人、意匠に工夫をこらす人、屋外で引き染めをする人といった多様な職人の構図が描かれており、その多様さから、染色業に関連する愛染明王に対する信仰の一面をうかがうことができる。

■6.熊谷のシルクロードと富岡製糸場

 平成26年6月25日、第38回ユネスコ世界遺産委員会にて「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界文化遺産に登録することが決定された。明治5年に創業した「官営富岡製糸場」(右絵:國輝「上州富岡製糸場之図」(富岡市教育委員会))は、民営化後、昭和14年に現在の片倉工業株式会社に合併。その後、昭和62年に操業を休止し、平成17年に同社から富岡市に寄贈された。
 かつての熊谷も同社の製糸工場「旧片倉工業熊谷工場」があった。その他、蚕業試験場、繭検定所など、養蚕関連の工場や関係機関が所在し、養蚕の街としても栄えた。世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」と共に、熊谷のシルクロードは語り継がれている。

 「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、世界経済の貿易を通じた一体化が進んだ19世紀後半から20世紀にかけて、高品質な生糸の大量生産の実現に貢献した技術交流と技術革新を示す集合体として、世界の絹産業の発展と絹消費の大衆化をもたらした。文化庁によると、「富岡製糸場での技術革新は、製糸技術の革新と、原料となる良質な繭の増産を支えた養蚕技術の革新の双方が相まって成し遂げられた」と評価されている。富岡製糸場(富岡市)・田島弥平旧宅(伊勢崎市)・ 高山社跡(藤岡市)・荒船風穴(下仁田町)によって構成されている。富岡製糸場(史跡、国宝)は明治5年に明治政府が設立した官営の器械製糸場。和洋技術を混交して建てられた木骨レンガ造の繭倉庫や繰糸場などがほぼ完全にのこる。民営化後も一貫して製糸を行い、製糸技術開発の最先端として国内養蚕・製糸業を世界一の水準に牽引した。
 富岡製糸場には深谷出身の三人の人物が深く関わっている。渋沢栄一は明治政府の官営を前提とした製糸場設置を推進し、尾高惇忠は富岡にフランス式の機械製糸場を竣工して初代場長を務めた。韮塚直次郎は富岡製糸場の巨大建築建設を支える煉瓦職人を束ねた。また、尾高惇忠の長女ゆうは富岡製糸場の工女第一号として就労。最新鋭の機械式糸繰りをフランス人から習得する伝習工女の先駆けとなったことで知られている。

■7.尾高惇忠筆 奉納額

 明治21年(1888)に掲げられた額には、世界遺産「富岡製糸場」の初代場長の尾高惇忠の筆名「藍香」を目にすることができ、当時の製糸・織物業との深い関わりも推察できる。西武藍商の名からも、明治時代以降、藍染業を中心とした業界団体からの大きな支援があったことが分かる。表面には、「明治21年3月8日 共進 成業 唯頼 冥護 西武藍商等謹白 筆尾高藍香」と記されている。「共に進みて業を成し、唯(ただ)冥護に頼る」と記され、藍染業の発展について仏の加護を祈念して奉納されたものと推察される。尾高藍香は、天保元年(1830)下手計村(現在の深谷市下手計)に生まれ、通称、新五郎 惇忠と称し、藍香と号した。青淵(渋沢栄一)とは従兄弟にあたり、「藍香ありてこそ 青淵あり」と後の人々は称えている。額の願主には、養蚕や藍玉の一大生産地だった現在の深谷市域の地名が見えることから、商売繁盛や業界繁栄の祈願を行っていたことが分かる。その中には、尾高の義弟である渋沢栄一の義弟の市郎や、栄一の伯父で養蚕の改良に力を尽くした渋沢宗助の名前を見ることができ、尾高・渋沢家の人々が、現在の市域を越えて交流があったことを明らかにする歴史的資料であるといえる。後に、昭和61年1月1日に熊谷市指定民俗資料(後の有形民俗文化財)に指定されている「藍染絵馬」の4枚と合わせて、新たな文化財指定に至った。

■第31回 愛染堂と絹産業遺産群のスポット写真

尾高惇忠筆 奉納額
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紺屋(天保年間)
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藍玉作り(明治16年)
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藍染の図
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紺屋(天保10年)
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■熊谷市文化遺産研究会

お問い合わせ 熊谷市立江南文化財センター 電話番号:048-536-5062
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作成日:2023/08/18 取材記者:哲学・美術史研究者 山下祐樹