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妻沼聖天山界隈

~2019年迄掲載 歴史 地域

第40回 残されている霊場の姿 第18番大師堂・第19番能泉寺

金銅弘法大師像(第18番 大師堂)

昨年、四国は八十八ヶ所霊場開創1200年で、各種記念事業が開催されていました。改めてその人気の高さに驚きます。私の知人も車で八十八ヶ所走破したと豪語していました。
無信心者なので、遍路や巡礼に出掛けたことがないのですが、現代の巡礼は、自分探しや心の癒し、そして観光的寺巡りといった多様なニーズに支えられています。
しかし、江戸時代の巡礼を取り巻く環境は、交通手段をはじめとして厳しいものでした。それでも命がけの巡礼の旅に出た人々がいました。
霊場に詣でたいという人々の声に応えるために、四国八十八ヶ所霊場や百観音(西国三十三、坂東三十三、秩父三十四)霊場の「写し」といわれる、地方版(今の県や郡単位)が江戸時代後半に全国各地に開創されました。
今手元にある資料で見ても、熊谷地域に関わる霊場が幡羅郡新四国八十八ヶ所、忍領西国三十三ヶ所、足立坂東三十三ヶ所、忍秩父三十四ヶ所とあります。
既に跡形もなくなってしまった寺や堂がありますが、幡羅郡新四国八十八ヶ所を中心に、埼玉県北部の霊場を訪ね、そこに残されている郷土の人々の信仰の姿に想いを馳せながら、過去から現在、そして次の世代につなげるきっかけを探してみたいと思っています。

■幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場

朱印帳(四国八十八ヶ所霊場)

江戸時代末期の天保6年(1835)に開創といわれ、幡羅郡(現在の熊谷市、深谷市)の寺院八十八ヶ所を四国八十八か所に見立てて定められています。昭和30年代まで遍路が行われていたようです。
残念ですが、現時点では、廃寺になっている寺、無住・兼務寺も多数あります。
●幡羅郡新四国八十八ヶ所霊場
(1)集福寺、(2)円満寺、(3)観清寺、(4)福生寺、(5)長慶寺、(6)福泉寺、(7)観照院、(8)蓮華院、(9)大乗院、(10)宝蔵院、(11)無量寺、(12)淨光寺、(13)歓喜院、(14)常楽寺、(15)西光院、(16)観音寺

(17)真福寺、(18)大師堂、(19)能泉寺、(20)龍昌寺、(21)大龍寺、(22)医王寺、(23)薬王寺
(24)東光寺、(25)成就院、(26)西福寺、(27)慈眼寺、(28)妙音寺、(29)白林寺、(30)延命寺
(31)文殊院、(32)普門寺、(33)光福寺、(34)永楽寺、(35)清滝寺、(36)大正寺、
(37)仁井田庵、(38)龍泉寺、(39)幸安寺、(40)来迎寺、(41)長祐寺、(42)惣持寺、
(43)利永寺、(44)観音寺、(45)常覚院、(46)長慶寺、(47)無量寺、(48)安養院、

弘法大師立像(第2番円満寺)

(49)新照寺、(50)全久院、(51)弥勒院、(52)観音堂、(53)福寿院、(54)延命寺、(55)光明寺、(56)宝性寺、(57)龍泉寺、(58)弘門寺、(59)徳蔵寺、(60)光福寺、(61)香林寺、(62)玉井寺、(63)長福寺、(64)阿弥陀寺、(65)大性寺、(66)光照寺、(67)薬師堂、(68)正法寺、(69)観音寺、(70)円通庵、(71)阿弥陀寺、(72)来迎寺、(73)瑞林寺、(74)薬王院、(75)能護寺、(76)宝蔵院、(77)養福寺、(78)阿弥陀寺、(79)正蔵寺、(80)観音院、(81)宝性院、(82)慈眼寺、(83)正徳寺、(84)普門寺、(85)長勝寺、(86)玉洞院、(87)光明院、(88)長昌寺

■調査のきっかけ

朱印帳(関口氏の朱印帳より)

このシリーズを始めるきっかけは、妻沼地域文化財調査研究会会誌「妻沼史談」の編集のお手伝いをしたことでした。妻沼史談に登載された「金銅弘法大師像のいわれ」(井上 勲氏)に使用する写真撮影で、執筆者井上氏からいろいろ説明を受けていた中で、偶然「幡羅郡新四国八十八ヶ所」という名称に触れました。これは何だ?と霊場巡りの好きな知人に尋ねたところ、「聖天様は13番霊場になっているよ」と笑われてしまい、見過ごしていたことに恥じ入りました。
更に、知人から調査を長年続けてこられた関口 一氏(熊谷市住)を紹介され、集められた資料をお借りできました。
*妻沼史談第4号
 編  集:妻沼地域文化財調査研究会
 発  刊:平成27年9月
 頒布価格:1,000円 

■第18番大師堂と第19番能泉寺

四国八十八ヶ所霊場は1番から順番に周るような配置になっていますが、新四国八十八ヶ所霊場は、バラバラです。身近な所から巡拝したのでしょうか。
第1回目はシリーズのきっかけになった「第18番大師堂」と「第19番能泉寺」を取り上げます。弘法大師霊場の第1回目ですから、相応しいかもしれません。




●第18番大師堂(遍照庵)廃寺 幡羅郡原井村(現熊谷市原井) 原井農業集落センター内に本尊安置
 写しの元になっている四国八十八ヶ所霊場と御詠歌
 四国恩山寺(徳島県小松島市) 御詠歌「子を産めるその父母の恩山寺 訪ふらひがたきことはあらじな」
●第19番能泉寺 高野山真言宗 幡羅郡江袋村(現熊谷市上江袋57)
 四国立江寺(徳島県小松島市) 御詠歌「いつかさて西のすまいのわが立江 弘誓の舟に乗りていたらむ」

■第18番大師堂(遍照庵)

江袋沼から見た原井農業集落センター

第18番大師堂は既になく、大師堂跡に現在は原井農業集落センターが建てられ、その中の1室に「金銅弘法大師像」は安置されています。この大師像は熊谷市指定文化財です。
実物を見て驚きました。写真(トップの写真)で大きさが表現できないのですが、市の説明文では、「空海の金銅製入定坐像、左手に念珠、右手に五鈷杵を持つ。像高130㎝。台座に享保5年(1720)如海法印の陰刻がある」とあります。
幅や重量の記載がないのですが、作られた当時の黄色に輝く姿は圧倒的迫力があったろうと想像できます。現在は集落センターの1室に納められ、通常は襖が閉じられていて、かつ、集落センターであるので、一般公開はされていません。
*金銅仏:銅製の仏像彫刻に鍍金を施したもの。

●江袋沼の弁財天
この江袋沼は古く、1600年頃(慶長年間)に、徳川家康の命を受けて、関東を中心に各地に新田開発、河川改修を手掛けた伊奈備前守忠次によって造られています。
沼は胃袋の様な形をしていて、中央部に突起部があり、その先端に弁財天を祀る祠がありました。
新編武蔵風土記稿に「辨天社 村の西溜井の中にあり、隣村原井村の鎮守にて、江戸東叡山不忍池生池院支配也」とあります。
確かに、上野の不忍池に似ていると思いましたが、誰が祀ったのか?伊奈備前守が祀ったのでしょうか?

■第19番能泉寺

能泉寺石標

能泉寺参道入り口に、寺名を刻んだ石碑が2基ならんでいます。
小さいほうの石碑に、はっきりと刻まれています。
「表:阿州橋池山立江寺写 新四国第十九番 本尊地蔵大菩薩
   江袋山能泉寺
 裏:幡羅一郡八十八ヶ所 天保六未歳十月 発願主良能
   長島作左衛門建」
新編武蔵国風土記稿の記述には、慶長十二年以前の創建になるだろうとあります。
能泉寺と大師堂は、近くにあったこともあり、関係の深いものでした。
第18番の大師堂の由来を見ると、「宝暦年中(1751~1761)に、原井の井上伊兵衛は愛児を亡くし、冥福を祈るため全国の神社仏閣を巡拝、その道中、如海法師と遭遇し当像を持ち帰り庵に安置した」とあり、庵名を「遍照庵」として、霊場の一つとなったようです。

■参考資料

・関口 一氏調査資料
・幡羅一郡新四国八十八ヶ所大師霊場 小倉八十著
・幡羅郡新四国八十八ヶ寺霊場 長谷川惣平著
・四国八十八ヵ所 ゆとりの旅 ブルーガイド編集部編

作成日:2015/10/18 取材記者:mhennmi