くまがやねっと情報局

くまがやねっと > くまがやねっと情報局 > バックナンバー > R407/R293 往来記 > 第8回 二つの故郷(熊谷、佐野)を持つ剣豪秋山要助

R407/R293 往来記

~2020年迄掲載 歴史 地域

第8回 二つの故郷(熊谷、佐野)を持つ剣豪秋山要助

秋山要助の墓(佐野市大蔵町の興福寺)

新型コロナウイルスの感染拡大が続く中で、不安の日々を送る市民の一人として、ウイルスを一刀両断する剣聖に登場して欲しいなどと思いつつ、今回の記事をまとめてみました。
「幕末の剣豪秋山要助のお墓が佐野市内のお寺にあると聞きました。秋山要助は熊谷の人です。調べてみて下さい」と、友人から情報提供されました。
幕末の剣術家には、取材者である私の家のルーツも関りがあり、興味を持って調べ始めました。
確かに、秋山要助の第一の故郷は熊谷、第二の故郷が佐野でした。
このシリーズR407/R293往来記に相応しい話題です。
更に、辞世の句の「世の中はただ春の夜の夢なれや富も誉もいかにとやせん」が気に入りました。
この時期ですから、調査不足のままですが、投稿することにしました。ご覧になっていただいた方からの情報を期待しています。

■秋山要助伝

熊谷市箱田の
秋山要助出生の地の解説板

秋山要助は、安永元年(1772)に北埼玉郡箱田村(現熊谷市)で誕生します。家業は紺屋(農業とも)でしたが、幼少から剣術を好み、16、17歳の時に秩父の甲源一刀流の道場に入門を願うが、「紺屋の倅に剣術は必要ない」と断られ、発奮し江戸の神道無念流戸ヶ崎道場の高弟岡田十松に師事。免許皆伝を受けて郷里に帰るが、忍藩剣術師範を御前試合で打ち負かしたことで、郷里を離れ全国歴遊。寛政12年(1800)29歳のとき門弟大川平兵衛、高橋平吉を連れて奥州へ旅し、水戸の帯金弥四郎(岡田十松門人)宅に逗留し、蒲生君平、仏性寺弥五郎等と交わり王事に奔走し、同所の立原杏所に墨画を学び、梅の絵を得意としたと伝えられています。
郷里に戻って道場を持ったのは40歳前後といわれています。
晩年、比企郡東吉見村(現埼玉県吉見町)の傑物大乗愚禅和尚に参禅し、後剃髪して雲嶺と号しています。その頃、安蘇郡天明宿(現佐野市)の山崎尚志道人に招かれ、佐野で多くの子弟の育成あたり、天保4年(1833)8月に佐野の地で亡くなりました。辞世の句「世の中はただ春の夜の夢なれや富も誉もいかにとやせん」
第一の故郷は熊谷、第二の故郷は佐野と伝えられています。
熊谷市箱田地内に秋山要助出生の地の解説板が、令和元年(2019)11月箱田公民館により設置されています。

■佐野市興福寺の秋山要助の墓

秋山要助の墓側面(門人の名が刻まれている)

佐野市大蔵町の興福寺内に、秋山要助の墓はありました。墓石は昭和46年(1971)12月に佐野市文化財に指定されています。
先日、天明鋳物の工芸作家正田忠雄先生と、秋山要助の話をしたところ、要助の弟子に正田家の祖先もいたとの情報を得て、撮影してきた墓碑の写真を確認したところ、正田姓の名前が刻まれていました。
門人43名が記されているとありましたので、佐野市内の剣道愛好家の方々の祖先の名が出てくるのではないでしょうか。
また、江戸時代の南画を代表する谷文晁、渡辺崋山と並ぶ画家であった立原杏所から学んだ要助の墨絵の作品が、佐野市内から出てくるかもしれません。

■剣豪秋山要助の学んだ剣の流派

秋山要助の墓前解説板

墓前に立てられている解説板には、「鹿島神道流」を学ぶと記されています。
熊谷市の記念碑や「熊谷人物事典」で記されている秋山要助は「神道無念流」と記されています。
更にネット上に記されている中に、神道無念流を学び、後に「扶桑流」という一派を立てたとあります。また、要助の父親(紺屋)が「鹿島新当流」の使い手であり、その父親から「鹿島新当流」を幼少時に学んだとありました。
剣の流派については、もう少し調べてみたいと思います。

■渋沢栄一翁は秋山要助の孫弟子

渋沢栄一翁は11歳の時から、叔父(渋沢宗助)の道場で神道無念流を学びました。秋山要助の後継者大川平兵衛は川越、熊谷の道場を中心に、出稽古先である渋沢宗助の道場で、栄一翁を直接稽古を付けていたかもしれません。

■参考

・熊谷人物事典 日下部朝一郎編 国書刊行会 昭和57年7月発行
・埼玉武芸帳 山本邦夫著 さきたま出版会 昭和56年4月発行
・剣狼秋山要助 鳥羽 亮・ほんまりう著 小学館 平成21年4月発行
・北武蔵剣術物語 川越市立博物館 令和元年10月

■編集後記

不用不急の外出自粛の時期ですから、手持ち資料と熊谷市市史編さん室から提供していただいた川越市立博物館の目録、熊谷市教育委員会山下祐樹さんから提供された令和2年2月13日付け埼玉新聞の記事など、知人の皆さんからの情報提供でまとめました。
取材者のルーツを遡ると甲源一刀流(開祖逸見太四郎義年)に行きつきます。熊谷人物事典に記されている甲源一刀流入門を断られたエピソードに関心が湧きますが、次の機会にしたいと思います。
新型コロナウイルスの早期終息を願っています。

作成日:2020/04/23 取材記者:風神雷神荘主人