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熊谷・軽井沢・プラハ

地域 歴史 ~2023年迄掲載

第19回 「坊っちゃん」先生 弘中又一が生きた熊谷

坊ちゃん先生 ゆかりの地MAP
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夏目漱石の小説『坊っちゃん』の主人公のモデルとされている旧熊谷中学(現在の埼玉県立熊谷高等学校)の数学教師である弘中又一氏の生涯と、弘中が歩んだ熊谷市街地の名所を紹介するマップを含むリーフレット(A4版、両面カラー、5,000部印刷)が完成しました。弘中が熊谷に着任してから120周年を記念して制作されたものです。

リーフレットは、埼玉県立熊谷高校や、弘中の居住地近くにある熊谷聖パウロ教会、八木橋百貨店などで無料配付します。また、熊谷市役所6階の社会教育課や熊谷駅連絡所・熊谷駅観光案内所などでも配布します。加えて、熊谷デジタルミュージアムでは、弘中について解説する特設ページとともに、同リーフレットのカラー版のPDFを公開しています。なお、コロナ禍収束後に現地解説会など開催する予定です。






制   作:熊谷市文化遺産研究会
      「坊っちゃん」先生MAP制作委員会・ワタリドリプロジェクト
協   力:熊谷市教育委員会・埼玉県立熊谷高等学校同窓会
監修・執筆:熊谷市立江南文化財センター 山下祐樹

■弘中又一と熊谷

前列右から3人目(弘中)

夏目漱石の名作『坊っちゃん』。その主人公・坊っちゃんのモデルとされ、漱石の友人でもある「弘中又一」は、熊谷の地で熊谷中学の数学教師として過ごしました。
愛媛県の松山中学校(現在の愛媛県立松山東高校)に勤務していた漱石は、時期を同じくして赴任してきた弘中と早々に意気投合し交友を深めます。1年後、2人はそれぞれ松山中学校を後にしますが、松山中学校で「ボンチ先生」の愛称で慕われた弘中の破天荒な性格とその実話体験をもとに、夏目漱石は小説『坊っちゃん』を執筆したのではないかと考えられています。
弘中は松山中学校などを経て、明治33年(1900)埼玉県尋常中学校第二分校(旧制熊谷中学:現在の熊谷高校)に着任しました。明治42年から大正8年までの約19年間を熊谷の地に身を置き、熊谷市宮町1丁目(現在のさいたま地方裁判所熊谷支部南側)の借家などで家族と共に暮らしました。
『熊谷高校八十周年誌』には「熊谷中学時代」の随想で弘中の「在熊谷19年」の寄稿文が掲載されています。その中で弘中は熊谷での生活を「桜と男の熊谷。生涯の最も愉快な19年間であった」と振り返っています。この記念誌の多くの談話や記事からは、当時の学校生活、弘中の人物像や家族についての様子を垣間見ることができます。 
熊谷中学時代の弘中は、出席帳のサインに書いていた「弘」が「X(エックス)」に見えたことから「エグス」の愛称で生徒に慕われていました。「博学で数学はもちろん、英語も物理も漢文も歴史も何でも教えてくれた」「弁当を食べながら弘中先生を囲んで話を聞くのが楽しみだった」「昼食の食パンを火鉢の大半を占領して焼いていた」「学校の帰り、桜町あたりでドジョウを買ったが、入れ物が無いので、かぶっていた山高帽の中に入れて持ち帰った」「荷車を引いて歩くのに山高帽にフロックコートをはおって引いていた」など数々のエピソードが記されています。トレードマークの山高帽は、松山時代に夏目漱石から贈られたものと言われています。
『坊っちゃん』先生の足跡に想いを馳せ、熊谷の市街地を散策してみてはいかがでしょうか。

■弘中又一 (1873-1938)

夏目漱石の小説『坊っちゃん』の主人公のモデルとされる弘中は、漱石との出会いの場でもある愛媛県の松山中学校を経て、その後、熊谷に赴任しました。明治33年から大正8年(1900-1919年)熊谷中学校(現・熊谷高校)の数学教師として教鞭を執り、熊谷の地で約19年間を過ごしています。

■弘中又一 略年譜

明治 6年 (1873)  12月10日、山口県湯野村(現・周南市)で父伊亮、母タメの長男として生まれる。
明治23年(1890)  同志社普通学校(現・同志社大学)へ入学。数学と英語の教員免許を取得。
明治26年(1893)  12月、山口県柳井小学校高等科の英語代用教員となる。従妹の戸澤タカと結婚。
明治27年(1894)  同志社普通学校(現・同志社大学)卒業。
明治28年(1895)  愛媛県松山中学校(旧制松山中学、現・愛媛県立松山東高校)へ英語教師として単身
          赴任。
          松山中学校で、夏目金之助(後の夏目漱石)と職場を共にし、交友を深める。
明治29年(1896)  4月愛媛県東予分校(現・愛媛県立西条高等学校)に転任。11月東予分校を依願退職。
          徳島県第二中学校(現 徳島県立富岡西高校)の教諭となる。
明治33年(1900)  埼玉県尋常中学校第二分校(旧制熊谷中学、現・熊谷高校)に数学教師として赴任。
明治39年(1906)  夏目漱石が『坊っちゃん』をホトトギス4月号に発表。
          翌年、単行本化され話題を集める。
大正 8年(1919)  熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高校)を退職。京都の同志社中学校へ赴任。
昭和13年(1938)  8月6日、死去。享年66歳。

■第19回 「坊っちゃん」先生 弘中又一が生きた熊谷のスポット写真

坊ちゃん先生 ゆかりの地MAP
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前列右から3人目(弘中)
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■江南文化財センター

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作成日:2021/10/30 取材記者:哲学・美術史研究者 山下祐樹