熊谷・軽井沢・プラハ
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歴史
~2023年迄掲載
第26回 江南サイフォンとその時代
調査研究報告書の刊行を記念した江南サイフォン研究会での柴田忠雄氏と筆者
■第1章 資料編 ―江南サイフォンに関する先行調査報告を主題として―
【第1節 資料編序説】
「江南サイフォン」とは、その構造を「伏越」と称し、サイフォンの原理を利用して、荒川左岸を流れる大里用水の本線から分水した用水を、荒川の底下を通して荒川右岸へ導き、御正堰・吉見堰の2用水へ導く施設である。設置場所は、左岸は熊谷市河原明戸、右岸は川本町本田であるが、用水を江南側へ導くことから、通称「江南サイフォン」と呼ばれている。昭和11年(1936)、鉄筋コンクリートで造られ、長さ513メートル、暗渠の太さは、長径1.27メートルが全体の規模となる。この概要を含む資料については些少であり、その歴史的な側面を含む情報は限られている。このような実情の中、本稿に向けて、建設期の記録とともに、以降の用水事業にも関連した資料の確認調査を進めてきた。この調査の動機付けは、存在自体が忘却されつつある江南サイフォンを再認識してもらうことが、郷土の遺産の継承に繋がると考えたからである。この点こそが本稿の主旨であると明言できる。
平成時代における大里農地防災事業などを経て、用水周辺の整備が進展した。この過程により、江南サイフォンはその一部が現存するのみであり、「伏越」の構造の要点部となる河床下のコンクリート施設は除去されている。このような状況の中で、大里農地防災事業を前後して、「六堰」及び「大里用水」に関連した報告資料が刊行されるなど、当該事業に関する情報の整理が行われてきた経緯がある。それらの中には、江南サイフォンに関する情報が含まれているものの、各資料の解説及び論述においては極めて限定的な状況であった。また、江南サイフォンの保存環境も影響し、人々の記憶から薄れてしまうことが危惧されている。今後における新たな資料が加わる可能性も少ないことから、現状における江南サイフォンに関する資料の集成を行い、本稿の基礎部分として構成できたらと考えた次第である。
江南サイフォンに関する資料的状況は、先述のように熊谷地域の用水整備と深い関係がある「六堰」の整備、その後の農地整備事業、現代における大里農地防災事業などの資料において併記されるに留まり、直接的な報告資料は刊行されていない。また、事業報告を踏まえた諸資料の下地となる原資料に着目すると、六堰及び大里用水の企画立案時点から着工竣工に至るまでの公的資料・内部資料についても、多くの歳月を経ていることも影響し、その資料自体を確保することが困難となっている。このような状況下、完全な資料集成に至らないまでも、刊行された資料を吟味し、江南サイフォンに関する部分を抽出し掲載することで、本稿の主旨に近づけることができるのではないかと期される。
具体的な資料に目を向けると、埼玉県土地改良事業団体連合会『埼玉の土地改良』1977年、埼玉県土地改良事業団体連合会『いしぶみ ―碑に刻まれた埼玉の土地改良』1983年、大澤正一「六堰用水の研究」埼玉県教育委員会長期研修教員報告1990年、埼玉県教育委員会『埼玉県の近代遺産 ―近代化遺産総合調査報告書―』1996年、江南町史編さん委員会『江南町史』通史編下巻 2004年、関東農政局大里農地防災事業所『荒川の恵み ―四百年続く大里用水を次世代へ引き継ぐ―』2007年などがある。これらは土地改良事業や用水整備に係る内容を主要テーマとしている。本章の資料編では、各資料の一部に含まれる江南サイフォンに関する先行調査報告の記載を収集したほか、図面や調査概要等を加えることで、江南サイフォンの概要を縦覧する意図を含んでいる。
『荒川の恵み―四百年続く大里用水を次世代へ引き継ぐ―』の表紙と土木技術を示したページ
江南サイフォン周辺現状
【第2節 埼玉県土地改良事業団体連合会『埼玉の土地改良』1977年】
資料:埼玉県土地改良事業団体連合会『埼玉の土地改良』1977年 253頁
県営用排水幹線改良事業 大里用水地区
1 事業の概要
大里用水地区は、熊谷市を中心とし、深谷市、行田市、川本村、南河原村、江南村及び大里村の各市村の一部を包含する約80㎢に及ぶ地域内の水田約2,740haが対象である。
荒川を挟んで、左岸側に奈良堰、玉井堰、大麻生堰、成田堰の2,083ha、右岸に御正堰、吉見堰の657haは各々取水堰を有し、専ら荒川を水源としてきたが、堰自身の不完全、河川敷内導水路が長く用水路組織としても良好な状態でないこと、そこへ当時荒川河床の変化が生じ年々取水導水に困難を生じ、水路の維持管理に多大の費用と労力を要す状況であった。
そこで用水組織の根本的改編を図ることとし、六か所の堰を合同して、最上流の奈良堰取水樋管より更に上流4,700mの花園村永田地先にコンクリート堰堤を設置して水位を維持し、水量を確保し、幹線導水路を左岸沿いに新設して、奈良、玉井、大麻生の各用水路へ連絡し、成田用水へは大麻生用水路を経由したのち専用水路を新設して、その上流端へ接続する系統が作られた。
また右岸に対しては奈良堰用水路分水点より上流において、サイフォンにより荒川を横断、御正堰用水路へ導き、その下流部で吉見堰用水路へ連絡、分水することとされた。事業の完成により、荒川に流水がある限り安定した取水ができるようになり、かんがい用水のほか、冬期においても地域用水として長く貢献しているが、コンクリート堰堤による全河幅の横断、ローリングゲートの設置、導水暗渠、長大なサイフォンの施工等、現代的な農業土木技術の嚆矢でもあり、特に合口による用水組織の合理化の先駆的な事業として、この成功の意義は非常に大きい。
2 事業の内容
■第2章 対談編―江南サイフォンと農業治水の歴史そして地域遺産の継承―
2021年7月、筆者は、江南サイフォンの歴史に関して更に具体的な情報や経緯等を生の声として理解することを目的に、元江南町長で大里用水改良事業の運営に深く関わり事業主体の理事長、代表職を歴任した柴田忠雄氏と対談する機会を得た。対談は、柴田家が所有する江戸時代中期の建造物で熊谷市指定有形文化財の「柴田家書院」及び主屋の応接室で行われた。本章ではその対談内容の要点部を集約、編集し所収する。
資料を紹介する柴田忠雄氏。
旧江南町長としての功績、大里用水土地改良区
理事長などの貢献に対して多くの表彰を受けて
いる。
柴田忠雄 氏
1932年(昭和7年)5月14日、旧御正村(熊谷市上新田)生まれ・埼玉県立熊谷農学校(熊谷農業高等学校)卒業、東京農業大学卒業後、埼玉県庁入庁。埼玉県農林部耕地課などで勤務後、1977年(昭和52年)に江南町長選挙で当選。旧江南町(村)長として町政発展に尽力したほか、大里用水土地改良区理事長等の要職を歴任し、地域農業の振興に大きく貢献した。国営総合農地防災事業「大里地区」の推進に力を注ぎ、広域的な農業振興に務めた。事業完了後、効率的で生産性の高い農業基盤の整備を図るため、土地改良区の合併に積極的に取り組み、大里用水土地改良区を設立に導き、理事長に就任。更に、埼玉県土地改良事業団体連合会会長として、県全域の農業及び治水等の基幹政策を先導した。一方で、江南地域のブルーベリーの有機栽培を確立させ、江南ブルーベリー生産組合長として農業産業の充足を進めた。特に農業分野や産業基盤確立に精通し、熊谷市農業委員会委員などの行政関係委員としての活躍とともに、本市の発展と産業の振興に寄与された功績は誠に顕著と評価されている。2002年(平成14年)、勲五等双光旭日章受章。これらの業績が評価され熊谷市産業功労表彰に推挙された。
(参照:「市報くまがや」2010年5月号【熊谷市産業功労表彰】)
熊谷市指定有形文化財・建造物「柴田家書院」
柴田家は『武蔵国郡村誌』や『埼玉県大里郡郷土誌』などによると、初代治右衛門忠種が武田勝頼、2代目右馬之介忠昌が織田信長と北条氏直の家臣であったと伝わり、江戸時代初頭に荒川右岸に位置する現在の上新田地区の地に定住したとされている。柴田家書院は江戸中期に建築され、柴田家主屋の西側に接続している建物で、書院造りの特色をよく生かした建物として評価されている。『柴田家古文書』より建立年代は貞享2年(1685)とされ、欅や杉を主材とした構造で、瓦葺き屋根であり、内部の構成から書院造として分類されています。本書院の主室は10畳の上段の間であり、床・棚・建院床を設け、4畳の入側、右手に8畳の次の間、前面6尺を畳廊下の入側とし、周囲の廻り廊下も始めは濡縁であったものを現在のように改築したものと推定される。障子や襖は各時代に改修や交換がされたもので、意匠を凝らした文様を素地にするなど、精緻な印象を与える。
■対談
対談する柴田忠雄氏(右)と筆者
【第1節 緒言】
山下祐樹(以下、山下)
:昭和14年、水争いの解消や、安定した水を確保するために、六つの堰を統合する形で旧六堰頭首工が完成しました。そして新たな六堰と呼ばれる「六堰頭首工」の「竣工記念碑」には、「江南サイフォンの代替え施設を頭首工に併設」とあります。ここに示されるような江南サイフォンの歴史を考えた時、柴田忠雄さんの存在は大きいと考えています。自然と川の恩恵を地域の人々と享受するという観点からも、また、現在の熊谷地域における農業及び治水に関連した行政的な位置付けからも、その歴史的な経過とともに歩まれてきた柴田さんの見識に対しまして、大変興味があります。昭和時代から令和時代に至る江南サイフォンへの想いを、今回の対談でお伺いできたらと考えています。
【第2節 平成時代の改修事業】
柴田忠雄(以下、柴田)
:旧六堰頭首工の完成から約60年が経った頃、平成時代に入り、老朽化した施設の改修が緊急の課題となっていました。一般的には「用水施設の機能回復」、「災害の未然防止」など多くの目的とともに、平成15年、2003年に新しい六堰頭首工が完成する運びとなったわけです。
山下:平成時代の中盤に大きな事業として進められた新しい六堰頭首工の完成は、国・埼玉県・熊谷市を含め荒川の南側にある当時の江南町を巻き込んでの一大プロジェクトであったことは確かです。当時、広大な領域にまたがる事業として、その試行錯誤や事業運営の大変さなどが、様々な資料からも理解できます。
柴田:先程、お話があった記念碑によると、4市1町にまたがる3820ヘクタール、関係農民7751戸を受益者とする地域で行われたと記されているわけでして、当初の堰の頃から、約1.6倍に増えたという推計もあります。
【第3節 昭和時代の大里用水路改良事業】
山下:大正時代に立案され、昭和時代初頭に実施段階へと踏み出した大里用水路改良事業。その『大里用水路改良事業竣功記念碑』には、「水量不足ニ因ル被害少ナカラザリシヲ以テ、往々用水争奪ノ不祥事ヲ惹起シタリ」と記されています。当時の農業用水、または生活に関わる水利用についての課題が見受けられます。その課題と当時の状況についてどのようにお考えですか。
柴田:当時の治水は、防災意識より水が生活に直結するという意識から見た場合の治水、すなわち、農業などの生活に利するための水の管理という方策が叫ばれていたわけです。碑に記されるような事業実施の目的は、旧大里郡だけではなく、埼玉県内全体の問題とも深く関連していました。
山下:埼玉県の各地では、農業用水の確立は喫緊の課題であり、それも南部と北部の違い、西部と東部の違いなど、川の流れや自然地形などと関係し、水利用に向けた課題は多岐に渡っていたのが昭和時代の初め頃であり、その後、どのような施策を進めるか、単独の行政だけでは対応しきれなかったのではないかと予想できます。
柴田:勿論、時々発生する洪水もあり、それは今日語られることの多い治水の認識とも繋がるわけですが、現在のような土木工学のような技術があったとは考えづらい部分もあります。例えるなら、試行錯誤の連続で、工期の途中に方針が変わり、新たな方法が利用されるといったことも多くあったのかも知れません。そして実務的な側面では、行政区を超えた地域連帯かつ合議的な用水組合などの方式が盛んに行われるようになったのです。
【第4節 「江南サイフォン」の登場】
山下:そうした中で、当時の最新鋭の技術として施工された鉄筋コンクリート製、長さ513メートル、内径1.3ートルの伏越、いわゆる「江南サイフォン」の登場は、荒川上流域での技術的革新の一つとも評価できるのではないでしょうか。昭和から平成に至る時には河床が下がり、江南サイフォンのコンクリートが露出していましたが、建立時は地中の構造物で、トンネル水路と同じシステムであった。人々の目に触れることは無かったと想像できますが、荒川の北側から水を飲み込み、荒川の地下を通過し、南側から吐き出すという構造は、やはり試行錯誤の先にある一つの結論であったと推測できるように思います。この建設についての記憶はありますか。
柴田:江南サイフォンが建設された時期は、私の幼少期でもあり、具体的な記憶は多く残っていませんが、荒川南側の水の出口が上新田地区にあり、魚釣りや川遊びで荒川に行った時に周辺の様子を見た覚えがあります。六堰の取水口が北側にあることを考えると、確かに上新田地区の周辺は川の流路から遠ざかり、広く浅瀬が川の縁まで続き、川に辿り着くまで結構な距離を歩いたと思います。もしかしたら江南サイフォンの上を歩いていたことがあるのかも知れません。
【第5節 歴史の中での用水組合】
山下:原始時代、古代以降、荒川の流路は変遷を繰り返していました。江戸時代の当初に瀬替えがあり、近辺に堤防も整備された。このような経過を経て、土手と土手の間の川の流路も変遷を繰り返しています。六堰ができるまでの各用水の取水口の位置、水量などは水争いの原因になったわけですが、旧来より上流に統一的な堰を設置しようとした場所は、荒川の北側、左岸側であることから、流路も土手と土手の間の北側に位置する必要があった。この場合、南側の用水の取水が難しくなる。この難点を克服しようとした設備が、江南サイフォンであったと考えることができます。
柴田:江南サイフォンは、北側の用水組合と南側の用水組合の統合という課題とも関連しています。このことは昭和の施工時も、平成時代の改修時も同じ理念であったと言えます。水争いというと江戸時代の産物のように思われることもありますが、明治時代になっても多くの争議や裁判が立て続けに起きて、用水の利用者が一体となった、ともに理解し合いながらの運営は実に難しいものがあったわけです。
山下:争議や裁判の勝ち負けで方向性が定まることはあるのかも知れません。用水の恩恵を受益する者同士の抑制や規制にはなり得るものとも言えますが、そこの先にある建設的な議論が難しいという問題があるとも考えられます。また、争いに要した労力や金銭的な負担を考えると、勝敗が決したとしても、将来的に考えるとあまり意味を為さない場合もあるということだと思います。
柴田:そうした労力を、地域にとって将来的な展望もあり、建設的であることに注ぎ込むことが、六堰を着手する大きな意味であったと明言できます。ただし、共通の理解や、全ての賛同を得ることは難しかった。同じ川のもとで生活する人々ではありますが、考え方や手法がそれぞれ異なるのですから、仕方ないことです。そうした中でも、荒川右岸の用水の確保という理念を新たな技術で果たした江南サイフォンの意味は大きかったと言わざるを得ません。
地図を用いながら旧江南サイフォン周辺の水路
状況について説明する柴田忠雄氏
【第6節「江南サイフォン」に対する意識と課題】
柴田:私は埼玉県庁に入庁し、農政や土地改良区の部署にいましたので、仕事で江南サイフォンと関わることがありました。昭和30年代後半から40年代に掛けてですが、その頃には、江南サイフォンは地中から露出していて、水路のコンクリートの各所には裂け目や割れ目がありました。露出した江南サイフォンは荒川の流れをそのまま受けるわけですから、北側から取水した水が裂け目を通じて、再び荒川に流れてしまう。つまり、南側に繋がるはずの用水の水量が極端に減量してしまうという問題があり、対応を求められたというわけです。その一方で、当時は砂利採取組合などの河川内の営利的な資源活用組織もあり、その規制に沿わないような採取という点も、大きな問題と
してありました。
山下:水路のコンクリートが露出したことで、荒川の影響を強く受ける。強固な人工物とはいえ、多くの毀損があったように想像されます。毎年のように起きる洪水もコンクリートに悪影響を与えた。また、営利的な砂利採取や、昭和時代の東京オリンピックに際して、荒川河川敷から多くの土砂を採取し、東京の基盤整備に利用したということが言われています。そのことも関係あったのでしょうか。当時の状況を写真や新聞記事などで見たことがあります。これらの影響や関連性について興味あります。
柴田:東京オリンピックの時期に土砂採取し、荒川の河床が低下し、伏流水の湧水が枯れたという状況もありました。江南サイフォンにも影響があったと考えられます。砂利採取については、新聞等で騒がれても実質的な対策を取ることが難しかった。砂利採取は必要不可欠な側面もあったが、用水組合関係者は納得せずとも、意見が具体化することは稀だった。また、当時は埼玉県内では土地改良区や用水組合の統廃合や、新たな事業計画など、多くの課題がありつつも、この分野としては国土強靭化政策と交差しながら、ある意味、そのような勢いの中で、サイフォンの保護に対する意識は少なかった時期であったと覚えています。
【第7節「江南サイフォン」とのエピソード】
柴田:私は県職員の時、取水口を止めた江南サイフォンの中を何度か歩いたことがあります。コンクリートの毀損箇所の確認のためで、吐き出し口の付近から約400メートルを中腰で歩きました。割れた箇所から荒川の水がサイフォン内に流れ込み、膝上くらいまでの水位で、行くのも帰るのも非常に疲れました。
山下:命懸けの仕事ですね。400メートルを中腰で行くというのも、相当な運動ですね。取水口は止めてサイフォン内には立ち入れても、荒川を止めることはできませんから。水位も結構あるのですね。貴重な経験でしたね。ともあれ、コンクリートの毀損状況を実体験として感じられたという逸話として、とても興味深いものがあります。
柴田:平成の改修時には江南サイフォンは無くなりましたが、その一部を残しておこうという考えは、当時の国の事業の中で議論されたものでしたが、私としても納得のいく方策であると思いました。私も事業を継承する大里用水で理事長を務めましたが、時代の流れの中でも江南サイフォンの記憶は無くならないと考え続け、現在に至っています。
山下:私は現役の水路としての役割を果たしていた江南サイフォンを知りません。今は無き江南サイフォンではありますが、私が仕事としてこの江南サイフォンに関わることができたのは、呑口とも呼ばれる荒川北側の取水口付近のコンクリートの遺構が現在も残されているからです。ものつくり大学の土木工学を専門としている研究室メンバーと現地調査をしました。貴重な土木遺構としての認識を深めたところです。
【第8節「江南サイフォン」という文化遺産の継承】
柴田:六堰の歴史、大里農地防災事業の経過、そして江南サイフォン。こうした記憶や記録は、徐々に古い産物になっていくのは時代の流れです。当時の土地改良区や水利組合、大里農地防災事業に関わった地元代表者などの関係者には既に鬼籍に入られた方も多くいます。江南サイフォンという言葉を忘れた人、あるいは知らない人も多くいると思います。
山下:江南サイフォンのシステムなど、その特筆性などを伝える資料も多くありませんが、当時の『江南町史』や平成時代の国事業報告書の概要版として発行された『荒川の恵み』など、江南サイフォンの歴史を継承する素地としての役割を果たしています。これらの資料に基づき、我々の世代を含めて文化的な継承の必要性を感じています。
柴田:大里用水が啓発用として、旧取水口付近に設置した説明板なども、当時の関係者の想いがあったからこその動きであった。ただし、その設置からすでに20年近く経過しており、その存在を忘れてしまった人もいるのではと感じています。右岸側と左岸側に遺構を残した意味はあったと思いますが、特に旧江南町側、旧川本町側の出口付近まで確認に行くとなると、雑木林で行く手を阻まれる。インターネットなどで場所を案内するとか、今の技術で何か情報を出すとかした方が良いでしょう。
山下:土木工学的な意味のある江南サイフォンは、平成の改修によって一つの歴史を終えたことは間違いないと思います。昭和の着手から平成の改修で幕を閉じたという表現は、用水の利活用や国事業の関連からも適当なのかも知れません。しかし、サイフォンの取水口付近のコンクリートが残された意味は確かにあり、今日注目を集めている土木遺産や農業遺産などの特色を持ち合わせていると評価できます。大里用水の全体像自体が世界かんがい遺産に名を連ねても良いのではないかと考えるほどです。その中で、江南サイフォンの記憶も、一種の記録化することによって未来に引き継ぐことになると思います。まさに今回の対談もそうかも知れません。デジタル技術などで江南サイフォンを再現するとか、現在の上空をドローンで撮影するなど、新たな試みを色々想像することは楽しいことです。「世界かんがい遺産」登録の道も残されているように思います。
柴田:私に残された時間は少ないでしょうが、江南サイフォンという貴重で重要な水路があったことを語り継ぐことは大切であると考えています。新しい技術については全く分かりませんが、色々提案してください。助言くらいはできると思います。
山下:柴田さんの今まで進められてきた事業の意義を改めて感じながら、江南サイフォンという文化遺産を少しずつでも情報発信できたらと思います。ぜひ、「世界かんがい遺産」登録への踏み台に向けて、今後とも御教示ください。宜しくお願い致します。本日は誠にありがとうございました。また、対談会場となった熊谷市指定有形文化財・建造物「柴田家書院」を久しぶりに見ることもできました。感謝申し上げます。
【第9節 対談後記】
柴田忠雄氏は、埼玉県職員、江南町長、大里用水・土地改良区をはじめとする地域の基盤整備と農業振興に関連した組織体の代表者として、精通した知識と経験力を長年に亘り発揮されてきた。人々の記憶の中から薄らぎつつある江南サイフォンの歴史を振り返った時、柴田氏がこの対談で語った内容をアーカイブできることは、貴重な機会であり、今後に生かされる意義を含んでいるように思われる。
大里用水などの農地整備に関する報告書は事業実績として必須の報告が複数発表されているが、江南サイフォンに特化した内容は皆無であることから、柴田氏の発言や意識が、新たな知見の構築へと繋がる肝要な意味を含んでいると言えよう。元来、各報告書はマクロレベルの観点から事業を報告する必要性があり、この点からも全体的な割合の中で江南サイフォンの記載が少なくなることは必然でもある。このことが江南サイフォンに関する研究の進展が遅滞してきたことも関係しているように推量されるのである。
その一方で、江南サイフォンの構造体が全て無くなったという事態が回避され、その一部保存が果たされたことで、次世代への継承ということが可能になったことは幸いである。ただし、柴田氏が語るように今後の啓発や発信が重要になってくることは明白であるとも考えられる。遺構の一部が保存される中で、江南サイフォンの歴史的位置付けを改めて認識した上で、新たな取り組みが必要になってくることも予期されるのである。対談で話題になった大里用水に関連する「世界かんがい遺産」への道を模索することも、江南サイフォンに光を当てる契機になり得るように感じている。
■第26回 江南サイフォンとその時代のスポット写真
『荒川の恵み -四百年続く大里用水を次世代へ引き継ぐ-』表紙
写真をクリックすると拡大します
『荒川の恵み -四百年続く大里用水を次世代へ引き継ぐ-』土木技術を示したページ
旧江南サイフォン取水口付近の遺構
旧江南サイフォン取水口の水路
荒川の河川整備された旧江南サイフォン付近
下流土手から旧江南サイフォン付近を望む
資料を紹介する柴田忠雄氏。
熊谷市指定有形文化財・建造物「柴田家書院」
対談する柴田忠雄氏(右)と筆者
地図を用いながら旧江南サイフォン周辺の水路状況について説明する柴田忠雄氏
■熊谷市文化遺産研究会
作成日:2022/12/20 取材記者:哲学・美術史研究者 山下祐樹